『ガタカ』と『太陽』という映画を見ました。

ふだんあまり映画を見ないという知人に熱烈にすすめられた『ガタカ』を見る。そういう熱には乗ったが吉、ではないだろうか。

 

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遺伝子検査の結果で人生の行く先がなんもかんも決まっちゃう未来で、生まれつき遺伝的に劣った青年が違法な手段でのし上がり、幼いころからの夢であった宇宙飛行士として土星へと旅立つまであと一歩のところまでたどり着くが……あらすじとしてはこんなところ。『すばらしい新世界』の現代版といった趣きだけど、後味はさわやか*1。知人はこの主人公の「成り上がり」感にいたく感動したらしい。YAZAWAか?

 

ユートピアディストピアものいえば先日、映画館で予告編を見ておもしろそうかも、と思っていた『太陽』も借りて見た。わたくしめ、ユニクロの服とツタヤの100円レンタルDVDでじゅうぶん満足しております。生かしていただいてありがとうございます。自炊もします。もりもり食べ野菜。

 

この『太陽』には昭和天皇ではなく神木隆之介が出ている。ほかにいろいろな男や女も出ている。

 

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 原作・脚本の前川知大さんという名前、どこかで見たようなと思ったら、以前チケットをもらって見に行った演劇の脚本を書いた人だった。そちらもディストピア的な設定だったので、なにか一貫したテーマをもってやっておられるのだろう。『太陽』ももとは舞台だったそうだ。差別され隔離され追い詰められた側がそれゆえに発露する醜さを描く、ラスト近くのシーンが鮮烈だった。一点、安っぽいCG含め、発達した未来社会の描写にチャチな印象を受けてしまったので、これならむしろ演劇として見てみたかったという気もする。

 

若気のなんちゃらというやつで昔、ディストピアものの名作を読みもせずに、どうせ安っぽい風刺だろうと遠ざけていた時期があった。その後『1984年』なり『すばらしい新世界』なり、『われら』なり『華氏451度』なり、あるいは伊藤計劃なりをちょぼちょぼと読んで、おもしろいものもあればやっぱりなというものもあり、まあものに拠るわという結論で今にいたる。トランプ政権が誕生したアメリカで『1984年』が売れているとかいうニュースを聞くと、そこには何も書いてないよ、と鼻白む気持ちも残ってはいる。

*1:とはいえ物語の最後、主人公にアイデンティティを提供していたジュード・ロウ演じる半身不随の元エリートがとった選択は悲劇的といえば悲劇的だ。でもこれはまさに、『すばらしい新世界』の絶望的なラストを裏返しにしたものだとぼくは解釈する)

お出かけ前線

春来れり、お出かけ前線北上中、である。ちなみにこのお出かけ前線、今この瞬間も日本列島の上を南北にものすごい速度で往復しており、視認はできない。特にこれを読んでいるあなた方のように、人とのまじわりを絶ち社会性を涵養せず夢も希望もこれといった未来絵図も持たず父を罵り母を足蹴にし妻を娶らず子をもうけず天に唾し地に歯向かう引きこもり型のダメダメ人間には決して……………。

 

3月8日、知人数名と将棋会館を見に行く。「見に行く」といっても、見るもんなんかなんもないよねと笑っていたら、着いて早々、会館から現将棋連盟会長・佐藤康光九段がすたすた出てきてわれわれは俄に色めきたつ。A級残留おめでとうございます、いろいろご苦労も多いでしょうが頑張ってください、と声をかけることまではしなかったが。

 

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会館すぐ横の鳩森神社にお参りし、会館の売店をのぞき、千駄ヶ谷ルノワールですこし将棋を指して、新宿で酒。

 

3月10日。乃木坂駅に用事ができてしまって、とんぼ返りもつまらないので新国立美術館ミュシャ展。さいきんの美術展は規制も徐々にゆるくなっているようで、写真を撮らせてくれる一室が設けられていた。展示する側もそりゃまあ大変だろうが、見る側としては、喋るな、撮るな、よりはよっぽど楽しく見られる。

 

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正直いうと、ミュシャというと出てくる美人画のポスターにはあまり興味がないのだが、しかしやはり『スラブ叙事詩』と銘打たれた連作にはそれなりに圧倒され、「絵がでかいし絵がうまい」という印象を抱いて帰路についた。

 

かもめ

土曜のお昼、NHKチェーホフ『かもめ』の舞台が放映されていた。

 

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 チェーホフにも演劇にもさほど詳しくないぼくが、戯曲それ自体の出来についていうことは特にないが、一点、ラスト間際にニーナがトレープレフに語りかける「あなたは作家、わたしは女優」というお気に入りのセリフを実際に女優の口から耳にして、あらためてこの作品の魅力を確認したという、それだけ記しておきたい。夢を叶えたかつての恋人同士がふたたびあいまみえるその瞬間、それこそがこの戯曲の悲劇性の極致であるという逆説。そんな充溢、そんな高まりを、これほどシンプルな一行で表現できるチェーホフという人。にしてもまあ、褒め言葉の脆い爪先が、強大な"現実"を捉えきれずにかすめて過ぎるだけなのはいつものことだけど。

HANEKAWA is the love-gunpowder-gelatine-love

原作は知らないで、2009年にアニメで見始めて、ようやく"エピソード0"にまでたどり着く。2017年2月16日。

 

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8年もの長きに渡って、なんだかんだシリーズ(ほぼ)すべて見続けて、ある意味では〈物語〉シリーズとともにアニメ視聴歴を積み重ねてきたことになるので、ここでいちおう区切りがついたことには多少なり感慨が湧く。"Staple Stable" の響きが懐かしい。

 

にしても、しかしまあ、結局羽川なんだよね。羽川、羽川、お前はなんでもは知らないかもしれないが、俺はお前のなんでも知りたい。

 

20日、「豊田屋」であん肝と白子の鍋。平井は想像していたよりすこし大きな町だった。総武線で川を渡って、両国を過ぎてすこし行ったところ。

 

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数か月後の予約が一瞬で埋まるという恐ろしい現象を目の当たりにしたのち、意を決して4時半の開店と同時に飛び込むという手段を取ることに。

 

予約を試みて失敗した人間が言えた義理ではまったくないけども、やけにおいしいチューハイを飲みながらこの古びて居心地のいい島宇宙を内側から眺め渡していると、鳴りやまない電話の嵐をどうか鎮めてそっとしておいてやれないものかと、ついぼんやり考えてしまう。帰りぎわ、雨がひときわ強くなると、店主と思しきぶっきらぼうな鍋奉行のおじさんはわざわざ店の外まで出て、天気予報を信用しない愚かなわれわれに「入って帰んな」と傘を差し出してくれた。

『聖なる一族24人の娘たち』という映画を見ました。

見逃したと思ってあきらめていたら、阿佐ヶ谷のちっこい映画館でまたやってるのだという。欲望都市TOKYOはこういうときほんと便利ですね。

 

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原題は直訳すれば「草原のマリ人の天の妻たち」で、「神聖」やら「一族」やらはどっからきたのか、マリ人というトライブのことか。

 

舞台はロシア連邦内のエル・マリ共和国。みなマリ語を話す。24人(っていってるからたぶん24人)の女性にひとりずつフォーカスを当てた、悲劇あり下ネタギャグありの民話的エピソードが、ひとり数十秒で終わってしまうようなものもあれば5分以上あるものまで、オムニバス形式でぽんぽんと切り替わって飽きない。映画の最後、美しい民族衣装を身に着けた登場人物たちのアップが順に映し出されていくシーン、あばたもえくぼもほくろもしわもある彼女たちの顔を見るにつけ、自分の人生とは絶対に交わらないはずだった、遠いところの人たちの生の端に触れてしまったんだと思って、なんだかよく分からない種類の感動を覚えた。なのでエンドロールの、映画の雰囲気にびたいちそぐわない謎のダンスミュージックも許すことにする。

 

「ロシア」文化というと、どうしてもモスクワとペテルブルグのそれが中心になってしまうけど、いったん縮尺を大きくとってあくまでもロシア「連邦」として見たときには、地図上ではただ一色でのっぺり広がっているだけの土地が内包する文化的な豊饒さに喜ばしいめまいを感じざるをえない。まあもちろん、伝統文化というのは裏を返せば因習で、外から見ている分にはよくても、そこに否応なく投げ込まれた人たちは、映画のなかの幾人かのように美しいどころではない不条理を味わう場合もある。聖俗清濁いろいろ合わせて、この映画がテーマとするようなロシア連邦内の民俗的な事象を学術的に扱った本に、ロシアのカレリア地方に現代も残る呪術を現地で調査した『呪われたナターシャ』がある。

 

呪われたナターシャ―現代ロシアにおける呪術の民族誌

呪われたナターシャ―現代ロシアにおける呪術の民族誌

 

 

著者の博士論文をもとにした本ではあるけど、フィールドワークの成果を中心にしたものでそこまで難解でもなく、たいへんおもしろく読める。映画を見たならこちらもおすすめしたい。見てなくても。

 

こういった映画を見て、外国の変わった文化おもろいね、で終わってしまえば、その者はサブカルの谷に突き落とされて死んでいくだけなんだけど、谷底にある死者たちの町もそれはそれで快適なようで複雑だ。ぼくもかつて訪れたことがある。

『エヴォリューション』という映画を見ました。

「映画にとってネタバレは本質ではない」という意見はよく耳にするし作品によっては実際そうなんだろうけど、でもまあ、そこらへんはいまから見る人に決めさせたれよ、とは思いませんか。

 

12月7日、『エヴォリューション』という映画を見る。新宿シネマカリテは毎週水曜サービスデーで一律1000円。お財布にやさしい。だがはたして、お財布があなたにやさしいかどうか?

 

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服薬、食餌、病棟、注射、手術。ひとつひとつ、それら自体ははっきりと描かれるモチーフの群れを目にして私たちは、この島ではなんらかの治療あるいは実験、それもなにか、人間という存在の根幹を揺るがすような大それた類のそれが行われているということを悟る。けど、それだけだ。それが結局なにを目的としたものなのか、少年たちは誰でどこからきたのか、彼らを世話をしているのが女性だけなのはなぜか、島の設備は誰が整えて、島の外部はどうなっているのか、まったく明らかにされないまま、悪い夢のように美しくコンテクストを欠いた世界を見せつけられ続ける。情報を極度に制限された状態でその断片を必死に繋ぎ合わせていくうちに、ひょっとしてこの実験はほんとうに人類を救ってくれるものなのかもしれないと思い込まされそうになっていた。

 

コンテクスト抜きのテクストの羅列。つまりそれは、物語の舞台が外界から隔絶した「島」であることと同値だ。かつてカフカが、なぜという説明を欠いたまま(いつだってそうだが)、不気味な処刑器具の描写をただただ緻密に鮮明に、そしてこれ以上ないくらい無意味におこなったときのその舞台が、人里離れた「流刑地」であったことをふと思い出す。ただこの作品では少年と女性とが、この島に閉じ込められたまま「進化」のレールに乗っていてはいけないということに気づく瞬間がくる。ラストシーン、ひとりの女性の献身によって主人公の少年が「島」の外部へ、あるべきコンテクストへと投げ出されることによる解放が暗示され、ぼんやりと光がにじんで映画は終わる。しかしいったい、なにからの解放なのか? 島で行われていたことはなんだったのか? ほんとうに少年は島を出るべきだったのか? 少年の身にこれから起きることについて、見る者に与えられる情報は、またしてもゼロだ。

 

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を、徹底的にグロテスクで不吉なイメージで上塗りしたような印象の作品とでもいうべきか。となりのおばさんは開始15分とたたず、ほんとぐうぐういいながら寝てたけど、となりのおばさん以外のみなさんにおススメします。

 

ちなみに同時上映で『ネクター』という短編もやって、それがまたなかなかおもしろかった。花を食べては甘い蜜を分泌する女性のお話で、自分で説明しといてなにそれという感じの設定なのだが、ストーリーらしいストーリーはない、これはこれで不穏に楽しい作品。にしても同時上映って、「ザ・ドラえもんズ」じゃないんだから。

大根を失くす

今日の買い物の帰り、大根をどこかで落としてきたらしい。あんな重いもの、自転車の前カゴから落とせば気づきそうなものだが、実際いま家に大根はないのだから、どこかで落としたと考えるよりほかない。

 

ところで恥ずかしながら先日、ぼくは財布の中身のカード類を落とした。落としたことに気づかぬまま数日を過ごしたのち、落としたもののなかに保険証も混じっていたために役所経由で連絡があり、警察署に引き取りに行ったのだった。かなり大きな危機だった気もするが、なにせ落としたことに気づいていなかったのだから危機を感じるはずもない。そういえば昔、財布を落としたことにこれまた数日気づかず過ごしていたら警察から連絡がきたこともあった。あまりにぼんやり生きている自分を、我がことながら驚きをもって見つめるしかないが、それはともかくどちらもすんなり戻ってきたことに、この世界が公正に運営されていることに、ぼくは心から感謝した。愛すべき世界。

 

そう、当然のことながらぼくの保険証にはぼくの個人情報が記載されており、今回のように善意の人に拾われればまず確実に戻ってはくるのである。しかしひるがえってどうだろう。大根にはぼくの個人情報は記載されていない。であるからして、落とした大根はどんなに親切な人間に拾われようが確実にぼくのもとには戻ってこず、ごみ箱行きか、よくて拾った人の味噌汁の具になるだけである。あるいは豚バラといっしょに甘辛く煮られるのかもしれない。そこはどうでもいい。

 

保険証と大根のあいだに存在するこうした差はなぜ生まれるのだろう。保険証は戻ってくる。大根は戻ってこない。これを当然のこととして受け入れてもいいものだろうか。ぼくの肉体を構成する(はずであった)大根、ぼくとなりぼくとしてぼくとともにぼくの人生をいっしょに歩む(はずであった)大根が、つまらない紙切れ1枚に価値で劣るとでもいうのか。ぼくは納得がいかない。世界、この罰せられざる悪。ぼくはこの世界を憎む。ゆがんだ世界よ、大根を返せ。

 

Paralyzed Tokyo

11月24日の東京、雪。あの程度で交通機関が麻痺するなんて、とか雪国の人はいうけれど(ぼくもちょっとは思うけど)、でもしかし、東京はすこしくらい麻痺したほうが人間的な都市になれるかもしれない。

 

11月25日。友人たちと「荻窪ビール工房」でビール。

 

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世界の仕組みのどこをどういじればそんなん出力されるの、という感じの刺激的な色恋沙汰の愚痴を聞く。いつだって、ラブコメだけがうつくしい。

 

『ユーラシアニズム』について、備忘録代わりに。

書評というにはごちゃごちゃしている。

 

アメリカのジャーナリストの手になる『ユーラシアニズム ロシア新ナショナリズムの台頭』(NHK出版)、おもしろいかおもしろくないかだけでいえば、知らない情報満載でなかなかおもしろい。一方でこのおもしろさは少々あぶなっかしいのでは、ということも推察される。「推察」という言葉でお茶を濁すのは、正直なところぼく自身、この本にどういう態度でのぞむべきなのか判断がつきかねているからだ。

 

ユーラシアニズム―ロシア新ナショナリズムの台頭

ユーラシアニズム―ロシア新ナショナリズムの台頭

 

 

今年の9月末に出版された500ページ超えの本書について、11月13日付の日経新聞には、ロシア・旧ソ連の政治が専門の大串敦氏による書評が掲載されている。新聞の書評としてはかなり辛辣なトーンで書かれていて、本書を「ロシアの陰謀論に関する陰謀論的解釈の書」と揶揄的に呼んでいる。また、ロシア政治史の分野で名の高い塩川伸明氏が自身のウェブサイトに読書ノートとして載せておられた短い評でも、本書の学術的な価値に疑問符が投げかけられている。出て早々、専門家にこれだけ冷たくあしらわれる翻訳物というのもなかなかめずらしい。

 

ただこうした反応ももっともだといえるようなアラを本書は持っていて、まず全体を通して見たとき、構成が歪というか、論の流れがあまりスムーズでないように思える。本書は3部構成なのだが、ロシア革命期、言語学者のトルベツコイやヤコブソン、地理・経済学者サヴィツキーといった亡命知識人が、ボリシェビズムに代わるイデオロギーとしてのユーラシア主義を創生するにいたる顛末を描いた第1部と、ソ連時代の歴史家グミリョフが、反ソ的な傾向を持つユーラシア主義を、幾度も強制収容所にぶちこまれろくな資料もないなかで想像力を爆発させて発展させていく様子を描いた第2部までが、思想の内容とそれに対する社会の反応を交互に見つつまとめていく思想史然とした体裁を保っているのに対し、本書の半分以上を占め、著者がもっとも力を入れたであろう第3部では、「ユーラシア」という概念をめぐるナショナリズム思想の解説という性格はずるずると後景に退いてジャーナリスティックな色合いが濃くなり、プーチンとその周辺の言動やら、反政府ナショナリストたちの行動の背景やら、ウクライナのデモの内幕やら、現実の政治と人間関係についてのかなりあやふやで細々した(些末な、とすらいいうる)情報がこれでもかと羅列されていくことになる。大串氏の書評にあるとおり、第2部までで語られたユーラシア主義と、哲学者ドゥーギンが唱道し政権運営にも影響を与えていると著者が主張するネオ・ユーラシア主義のつながりはほとんど見えてこず、なんだかかゆいところに手が届かない、もどかしい思いに駆られたし、現代ロシアの錯綜した政治状況に通暁しているでもない自分としては、一体どれだけ出てくるんだという人物名や政党・政治団体名を頭の中で整理しきれずいっぱいいっぱいだった。また、たとえば1993年のモスクワ騒擾や2014年のウクライナのデモにおいて、誰が誰を最初に撃った撃たないという陰謀論めいた記述が、ロシアのナショナリズムの興隆という本書全体の論旨にどう関係してくるのか、ぼくにはいまいち分からなかった。

 

冷静に考えれば、ロシア革命から現代までまるまる1世紀の、これだけジャンル的にも多岐にわたる膨大な情報を1人の人間が1冊の本のなかでうまくさばききれないのは当然といえば当然で、第3部もあんなに不確実な情報を盛り込まないで思想史的な記述をつらぬくか、あるいは第1,2部と3部でそれぞれちがう本にしたほうがよかったんじゃん? という感想は出てくる。*1

 

かならずしも全体として緊密な論理構成を持っておらず、情報の質に関してもムラのありそうな本書に、政治・歴史学のプロが「気をつけよ」とシグナルを発するのは理解できる。内容的にとりわけ批判されているのが現代ロシアの政治とネオ・ユーラシア主義のつながりについて考察した第3部で、それは先ほども述べたとおりの込み入りぶりなのだが、ただそこで紹介される情報の価値を判断するのに、専門家の力をもってしてもかなり難儀してるっぽいことの背景には、そもそも今の日本に、現代ロシアにおける哲学・政治思想の中身とその社会的影響について、ドゥーギンをはじめとする幾人かのキーパーソンと直接コンタクトを取り、足で稼いだ情報をそれなりの量提供してくれている著者の見解を批判的に吟味できるだけの材料が、まだあんまりそろってないということがあるのではないか。昨今のロシアのアグレッシブな軍事行動に対する危機感もあってか、あるいはもともとロシア研究の素地が厚いからか、 アメリカではネオ・ユーラシア主義についてはそれなりに関心が高いみたいで、ドゥーギンの著書の翻訳や彼の思想を扱った研究書などもいくつか出ている。すくなくともこの点に関しては日本は立ち遅れているわけで、本書の価値を裁断するためには、塩川氏のいうとおり、本書の記述を相対化できる研究がほかにも出てくることが望ましいのだろう。 

 

もちろん、そんな哲学思想なのかプロパガンダなのかすらよくわからないものに依拠しなくても、いくらでも現代ロシアの政治は論じられるし論じられてるというのはまったくその通りではある。ドゥーギンなんて、ソ連の7,80年代のかったるい雰囲気がいやで、若気の至りでサブカルっぽくファシズムにハマったらそのままでいっちゃった、かなり怪しげな思想を振り回しているやつだし、眉に唾つけて当たろうあるいはハナから無視しようというのは賢明な判断かもしれない。が、そうこうしている間にアメリカではジャーナリストが1冊分厚い本を書いて、それをロシアの専門家ではない人間が訳して日本に紹介しちゃったわけで、良し悪しである。好き嫌いは別として、現代ロシア政治の混沌とした現状の思想的な背景を、本書のように人文学の分野含めて多面的に探るということもあってしかるべきだと思う。

 

文中で言及する著作に学術的な価値のあるものはほとんどないと著者が言い切り、そもそも提唱した本人たちですら、みずから構築した思想をさほど信じていない様子の「ユーラシアニズム」という不思議な現象の影を追った本書は、ではなぜそんなよくわからない思想が姿かたちを変えつつ現代まで生き残り、プーチンの口の端にのぼるくらいの影響力を持っちゃったのかという点を解き明かすことを目的にしている。*2人文学を学ぶうえで、すぐれた海外の思想文化に耽溺することは大きな喜びだが、それをそのまま輸入紹介することに第1の目的を置いて思想の内的な整合性と価値にのみ注意を向けていると、思想がなんらかのイデオロギーに沿ってゆがめられ、とりたてて学術的な価値がありそうもないのに社会を動かす力となっているという、一筋縄ではいかない状況をジャーナリスティックに追求するという視点はどうしたって抜けがちで、そういった意味で個人的には、本書の提起する問題には痛いところを突かれた感がある。みなさん、ロシアでは人文学役に立ってますよ、やばいくらいにね(?)

 

本書はまず、ふだんからロシア文化にサブカル的な魅力を感じてる人なら手に取って損のない1冊だろう。グミリョフの創出した歴史学とSFとオカルトの混紡に触れてみるといい、強制収容所の過酷な環境のなかで練り上げられた彼の思想は、トンデモにしてもそこらの腰のすわってないトンデモとは迫力が違う。マムレーエフ、ゴロヴィン、ドゥーギンといった固有名詞で語られるソ連のアングラ文化の一端に触れられるのも貴重だ。ここでやはり危険なのが、本書がなんだか事実としては〈おもしろすぎる〉という点で(大串氏もそのおもしろさは、皮肉としてではあるにせよ「スパイ小説」という言葉を使って認めている)、著者が、直接親交のあるドゥーギンをはじめとして本書で紹介する思想家たちの人間的な魅力に、彼らを小馬鹿にしつつ多少憑りつかれちゃってるようにも見えるところなどは、差し引いて考えつつ読まねばならない。だから今後本書の提起する問題についてはアカデミックな精査が求められるが、学術的には……毒を取り除けばフグ並みの高級食材となるのか、あるいはただ単に幻覚と腹痛をもたらすだけの毒キノコなのか、それはどうも読み手の腕次第というところになりそうである。

 

本書の繰り出す物語をただただおもしれ〜と思って読んでいたぼくには恥ずかしながら、本書の価値を十全に見定めるだけの熟練度合いがまだ足りていないというところは認めざるをえない。ただ一点、メルケルプーチンを評して「別世界に住んでいる」と述べたことについて著者が、われわれも近いうちにその別世界の住人になるかもしれないと言っている部分は、ちょうどアメリカ大統領選挙の結果が出た頃に読んだこともあり、大局観としてはまともな方向を指し示してるんでは、と思わないでもなかった。あなたが住んでる世界は、どっちだ。

*1:一応著者を擁護しておけば、そもそも英語の原題には「ユーラシアニズム」の語は入っていないので、ユーラシアニズムという一本の線に沿って話が進まないからといって責めるのはお門違いなのかもしれない。著者は歴史家でも思想家でもなくジャーナリストだし、おそらく本当に書きたかったのは現代ロシアの政治をめぐる第3部で、1部と2部はそこにつなぐための前置きのつもりだっただろう。ユーラシア主義という思想がなんなのか知りたい人が最初に読むものとしては本書ではなくてこちらをすすめたい。  

ユーラシア主義とは何か

ユーラシア主義とは何か

 

 とはいえ、これはすでに名前を出した言語学者トルベツコイと地理学者サヴィツキーに焦点が当てられたもので、『ユーラシアニズム』でいくと第1部、全体の5分の1ほどで扱われているテーマを扱う学術書なので、ちょっと方向性が異なる。

*2:この「影響力」というものが、実態を実証的に把握しづらいいかにもめんどくさいものではある。でも日本に置き換えてみるとたとえば、司馬遼太郎の創作を史実と厳密に区別しないいわゆる「司馬史観」みたいなものに基づいて、竜馬大好きエグゼクティブが自己流経営思想を開陳するなんてのは実にありそうな話だし(『竜馬が行く』はおもしろいですけど!)、もっと害悪のあるところでいうと、「江戸しぐさ」みたいな、完全な創作物がまるで史実であったかのごとく公的な教育の現場に浸透しちゃったことなんかも考え合わせると、あまりひとごととは言えない。学問と非学問のすき間に生えるカビみたいな(失礼?)思想にどう対処したらいいのかって、けっこうむずかしい。こういうのって学術的な論証が効果を発揮する磁場からはずれた場所で勢力を拡大するからだ。クローヴァーは、ウイルスのように人に寄生して広がっていく真実より真実らしい思念を、進化生物学者ドーキンスにならって「ミーム」と呼ぶ。ねぇミーム、こっち向いて。

あなたの口から秋のためいきが麺に似て細く長く伸びあがり、高く抜けていこうとする空をなめらかに縛り上げるさまを、あなたはぼんやりと見ている。

響け!ユーフォニアム 2』『3月のライオン』『終末のイゼッタ』『オカルティックナイン』『ブブキ・ブランキ 星の巨人』『ガーリッシュナンバー』、2016年秋クールアニメはどれもおもしろい。どれもおもしろいので息をつく暇もないというのがぜいたくな悩みといえばいえる。夏クールを結局1本も見ずに終わってしまったので、体調を「アニメ」に設定するのにすこし時間がかかる。

 

早稲田「ラーメン 厳哲」。おいしい葱がたっぷりのっててすばらしい。

 

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限定メニューに高価な食材を使っていたり、お酒もそろえていたり、早稲田という土地柄ながら、学生にラーメンを安くどんと提供というよりは、ちょっと高めの値段設定でサラリーマンに飲み屋代わりにも使ってもらいたいみたいな意志を感じた。強い意志はなによりも貴い。

 

新宿「たかはし」。焼きあごラーメン。あごの出汁はふつうにうまいし、麺が変わったちぢれ具合でおもしろい。

 

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そして店の床がめっちゃすべる。

 

 三鷹「たきたろう」。塩つけ麺。店の外壁が奇抜。

 

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素朴なつけ麺だが、「しょっぱくてうまい」という原初的なよろこびを与えてくれる。ラーメンとは本来そういうものであると思う。知らんが。

 

池袋「中国家庭料理 楊 2号店」の担々麺。これはもうほんと抜群にうまい。

 

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羊肉のクミン炒めとか、ほかの料理もすごくおいしかった。美味健康、再訪必至、美人薄命。

 

西荻窪「麺尊 RAGE」。

 

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ここはおいしいのでたまにいくのだが、このときはなんだかちょっと油っぽく感じた。ぼくの舌のせいか、ブレか。ま、なんだっていいさ。おばけなんてないさ。

 

東小金井「くじら食堂」の限定、からいつけ麺。

 

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見るからにからそうだが、からいものが得意でない(嫌いとはいってない)ぼくでもおいしく食べられたので、まあそんなもんである。どんなもんじゃーーーい!!!!

 

三鷹「みたか」。中華そば。真ん中に見えるホイップクリームみたいのはほぼ脂身のチャーシュー。あたりなのかはずれなのか。あなたが太っていればあたり。あなたが死んでたらはずれ。

 

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ぼくはこれを食べている最中ずっと、『響け!ユーフォニアム』の吉川優子の魅力について考えていた。すぐれたラーメンは人の思考に介入して邪魔をするということがない。

 

水道橋「勝本」の限定塩ラーメン。

 

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はじめて行ったのに限定を頼んでしまったが、べらぼうにうまい。ちなみに「べらぼう」は棒の名ではないらしい。棒好きの諸君、ざんねんだったね。

 

神田神保町の「つけそば 神田 勝本」。「勝本」の支店。

 

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本店もそうだったが、麺がすごくおいしい。そして神保町のつけ麺のほうは麺が2種類盛ってあるという珍しい仕様。はなまるあげちゃいます。その代わり、あなたの一番大事にしているものをください。

 

三軒茶屋AFURI」。塩ラーメン。

 

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演劇を見るためはじめて三軒茶屋に降り立った日の夕飯だが、最初に2軒、時間通りに店があかないという不幸に見舞われ、3軒目に見つけてしかたなく入った。三軒茶屋だけに。ふざけてんのか!!!!

 

番外編。吉祥寺「チョップスティックス」でベトナムのブン。ブンとはフォーに似てフォーにあらざる麺。

 

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ブン、ブンブン、ブンドコ、吉・祥・寺!!!!!!!

『遠野物語 奇ッ怪 其ノ参』という劇を見ました。

行けなくなっちゃったんでよかったら、と演劇のチケットをもらう。古来より、持つべきものは急に演劇に行けなくなっちゃう知人である、との言い伝えもある。そんな言い伝えはない。

 

遠野物語・奇ッ怪 其ノ参 | 主催 | 世田谷パブリックシアター

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「其ノ参」ってことは、其ノ壱と其ノ弐があったんだろうけど、知らなくても大丈夫でしょとのこと。そもそも演劇なんて見るの何年ぶりだというありさまなので、1や2があったところで知る由もない。四の五の言わずに見に行くしかない。

 

7時開始のチケットをその日の昼に外出先で突然もらうという、まあまあ急な話だったので、特に内容や出演者を調べもせずぼんやりした状態で、柳田國男遠野物語』の翻案という情報だけ持って見たのだが、予想をはるかに上回るおもしろさだった。

 

舞台となるのが、「標準化政策」なるものが施行され、方言の使用や、科学的な裏付けのない怪談や迷信などの活字化が禁止された日本に似たどこかという、ディストピア風の設定。主人公の作家ヤナギタは、遠野出身の青年スズキから聞いた奇怪な物語をまとめた書籍を出版したことを官憲に見とがめられ連行される。取調室では妖怪研究の権威である東大の教授イノウエが1対1で検閲を担当するのだが、イノウエはヤナギタ‐スズキのつむぐ不合理で摩訶不思議な話の数々に、反感を覚えつつ徐々に引き込まれていく。実はイノウエが「御用学者」と蔑まれながら非科学的な妖怪譚の根絶に熱意を燃やすのには理由が……というようなあらすじである。

 

コミカルさとシリアスさのバランスがとてもよくて、隣の席のおねえさんがケタケタ笑ったりのど飴を舐めたりするのにつられて、ぼくも笑ったりしんみりしたり、楽しく見られた。シームレスな場面転換とか一人の役者が役をころころと切り替えるとか、要するに複数人でわちゃわちゃと落語をやってるみたいな感じとでもいえばいいのかもしれないけど、演劇ならではだなあと感心した。

 

役者について、最初チケットをもらう際、「ナカムラトオル」知ってる? 「セトコウジ」は? と訊かれたときにはポカーンだったのだが、見れば知ってる有名人であった。とりわけスズキ役の瀬戸康史NHKのお菓子作り番組『グレーテルのかまど』のイケメンじゃん、『合葬』(杉浦日向子の同名漫画の映画化)にも出てたぞとなって、これではまるでファンだ。

 

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グレーテルのかまど』でにこやかにお菓子を作り続ける瀬戸氏を見たときは、イケメンがお菓子作りかよ、お前も粉砂糖にしてやろうか、という暗い気持ちに支配されていたものだが、間近で生の迫力ある演技を繰り出されると、役者、スゴイ、エライ、とあっさり翻意せざるをえない。しかしまあ、顔のいい男に演技まできちんとされたら、われわれ凡愚の民はいったいなにをよすがに明日からのつまらない日常を生きていけばいいのだろう。

 

このように、当然ながら演劇だって見ればやっぱり上質なおもしろさを提供してくれるので、じゃあ続けてどんどん行けばいいじゃないとは思うし、実際行ってみたくもなったのだが、おのれの乏しい財政状況を鑑みるになかなかきびしいものはある。もらったものの値段をうんぬんするのは非常にはしたないと分かったうえで、しかし7500円というのはなかなかの値段だ(いちばん安い席ではないが)。映画みたいに1日に4度も5度も上演するわけにはいかないから映画4回分くらいの値段なんだと言われれば、なるほど単純な算数だが、四則演算で腹がふくれたりへっこんだりするでもなし。

 

でも、だからお金に余裕のあるムッシュ&マダムでいっぱいなのかなあとか考えながら出かけたら、若い客もけっこう来てて、みんなえらいなあ、知らないところで人もお金もぐるぐるめぐるのだなあと、妙な感動をおぼえたのも事実だ。ぼくは何事にも消極的で世界がせまい人間なので、こういう機会に外部からの力でぐいぐいと了見が押し広げられたことには素直に感謝しなくてはならない。顔で瀬戸康史に勝てないなら、素直さで勝負をかける。瀬戸氏がめちゃくちゃ性格もよかったら? もはやなすすべがない。

『とうもろこしの島』と『みかんの丘』という映画を見ました。

秋っぽ。マジ寒。でも寒いのだ~い好き。チョコあ~んぱん。

 

10月29日、古本まつりのにぎわいを横目に、神保町の映画館で『とうもろこしの島』と『みかんの丘』を見る。

 

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どちらも監督はグルジア人だが、一口にグルジア映画ともくくりづらい。アブハジアの独立をめぐるグルジアでの内紛を題材としたこれら2作は、『もろこし』が6か国、『みかん』が2か国の合作で、ロシア語やらグルジア語やら数言語が飛び交うきな臭い地帯の物語だ。もっとも、ぼくにグルジア語とアブハズ語の聞き分けなんてできるはずもないので、飛び交っている「らしい」というところだが。

 

『みかんの丘』のほうが戦争物の人間ドラマとして、少々ベタにおもしろく、人にもすすめやすい気がする。ただぼくとしては『とうもろこしの島』ののほうを深く記憶にとどめたい。PVやパンフレットの宣伝文句には「人間として在るべき姿」を描いたとあったが、それは『みかん』のわかりやすいヒューマニズムには妥当しても『もろこし』のほうにはむずかしいのではないか。『もろこし』のほうの主人公である祖父と孫娘の生き方は、時間や空間の感覚からしてぼくの普段のそれとはかけ離れていて、ラストシーンに至って正直ぼくはある種の不気味さすら感じた(比較的饒舌な『みかん』と寡黙な『もろこし』の対比によって、こうした印象がぼくのなかでより強調されたのかもしれない)。人はこう「あるべき」なのか? こう「あってしまう」だけではないのか? でもこういう不気味さこそが、異文化に触れるときに手に入る最良のものだとぼくは考えている。失礼な物言いだろうか?

 

2015年は『ピロスマニ』、2016年は『花咲くころ』と、グルジアの映画がその年いちばんのお気に入り(今年まだ終わってないけど)で、このところなんだかひとりで勝手にグルジアづいている。ソ連崩壊直後のグルジアを舞台にした『花咲くころ』でも、アブハジア紛争は物語の背景として作品のトーンを一段暗く押し下げていた。『ピロスマニ』が、グルジアという国の対外的な誇り、もっとも輝かしい部分の表現なのだとすれば、『花咲くころ』や今回の『もろこし』『みかん』というのは、地球が文字通りglobal=球形であるがゆえに、日本に軸足を置いては死角となる遠いむこうの世界の陰が、映画の明かりでほんのり照らし出されたとでもいうか。

 

ちょっと前にユーゴスラヴィアの崩壊をテーマにしたジュブナイル小説を読んでいた時も感じたことだが、国とか文化とかいうまとまりが、なにか実体として統一的な基盤を持っていて、それはいついつまでも安定して保たれるんだなんて、どうして素朴に信じていられるのかという気分に、こうした作品群に触れているとなってくる。グルジアアブハジアの問題に関しては廣瀬陽子『未承認国家と覇権なき世界』などを読み勉強したい。ノーベル賞作家アレクシエーヴィチの『死に魅入られた人びと』第16章では、アブハジア出身のひとりの女性の視点からこの紛争が語られていたりもする。

 

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未承認国家と覇権なき世界 (NHKブックス No.1220)

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死に魅入られた人びと―ソ連崩壊と自殺者の記録

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それにしても岩波ホール、空いてる。経営する側にとってみりゃ厳しいのだろうけど、前の席の背にあごをのっけながら見るみたいなことができちゃうのは、得難い環境であることは否みがたい。東京で『君の名は。』とか『聲の形』を見ようと思ったら人は、新宿の映画館で満員のホールに整然と、かつぎゅうぎゅうに詰め込まれるみたいな選択肢を取らざるを得ないわけだが、そんなのはどうしたって居心地がわるい。われわれは贈答用の苺ではないのだ。

『花咲くころ』という映画を見ました。

深夜アニメ視聴が生活の一部に組み込まれ早やウン年、四季の移り変わりとアニメのクールの切り替わりを同じもののように考えて暮らしてきたせいで、7月開始のシリーズを1本も見ていない現在、ぼくには夏らしい夏もおとずれていない。いまはなんだか記憶喪失者のようにぼんやりして、数か月前まで『甲鉄城のカバネリ』がどうだ『迷家』がどうだといって騒いでいたのがまるで他人事だ。

 

8月4日に見た『花咲くころ』というグルジア映画はたいへん良くて、ほうぼうでおすすめしている。問題は、上映がこの日1日だけだったので、すすめたところで誰もすぐには見られないという点である。

 

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1992年、ソ連邦が崩壊してただのグルジアが戻ってきたころの話。1978年生まれのグルジア人女性監督が、自身の少女期の体験を反映させつつ2013年に作ったこの映画は、映像はどこまでも端正で、女の子たちの着ている服なんかもぼくの目にはおしゃれに映って、現代グルジアの素敵にはかなげなガールズムービーだよ、でも場面によってはぜんぜん通ってしまいそうに見える。

 

だからそこに唐突に「誘拐婚」なんていうモチーフが登場するとき、それまで見てきた日常の光景と、目の前で発生した事態をうまくつないで処理することができず、ただただ困惑する。宇宙旅行の最中にぽっかりと現れたブラックホールに吸い込まれたら、こんな気分かもしれない。

 

自国の因襲を糾弾するために、いちいち美しい映画を撮るという手段を選ぶ人がいるのかどうか、よくわからない。まあ、それも目的のひとつかもしれないとは思うけど、かといって義憤とか嫌悪とか、そういう強い感情を喚起するための描写がなされているわけでもなく、作中の舞台から20年の時を経たいま、 自国の正気も狂気も取り集めて一度お焚き上げでもしようかという別種の強い意志を、どちらかといえば感じる。神社で焚き火を見つめているグルジア人女性を想像してもらう必要はまったくないけど。

 

昨日? あったことがあったのよ、と『悪霊』のリーザが言うみたいに、グルジアではこんなことがあったのよ、とだけ淡々と語る映画だ。こんなこと。歌や踊り、いじめっ子やひどい教師。内戦、窮乏、酒、煙草。暴力、恋愛、怒りに諦め。そしてその他一切のことが。

 

ちなみにというべきか、上映会場のアテネ・フランセの場所をよく確認しないまま、JR御茶ノ水駅から神保町の古書店街を経由して向かったら途中、東京にこんな急な階段あるのかよ、という新鮮な驚きをぼくに与える階段をのぼる羽目になってたいへんだった。東京の高低差に注意をはらって生きる者などタモリしかいないのだから、ぼくが知る由もない。

 

映画を見た帰り、神保町「麺屋33」でつけ麺。

 

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むかし水道橋でアルバイトをしていたときなんかはちょくちょく来ていたお気に入りの店だが、つけ麺ははじめて食べた。おいしい。

お前の時代は

じゃあ逆にお尋ねしますけど、なんで『レオン』見たことあるんですか? 公教育のカリキュラムに組み込まれてましたっけ? 学校で見ろって教わりました? 国語便覧に『レオン』載ってました? 女子だけ視聴覚室に集められて『レオン』見せられるとかありました? ないですよね?

 

であればべつに、ぼくがいままで見てなくたっていいじゃないですか。いつ見たっていいわけじゃないですか。「まだ」とか「すでに」とか「いまさら」とか「いずれ」とか「いずくんぞ」とか、そういうのはいっさい関係ない。見て、聞いて、触れて、感じて、その瞬間が〈今〉。そして〈永遠〉。

 

ということで『レオン』を見た。のちになって完全版というのが出ていたのを知らず最初に借りてきたのがオリジナル版で、結局完全版も借りなおしたので、短い期間で2度も見ることになったのだが、2度目で泣いた。いまぼくに会うと「2016年に『レオン』を薦めてくる人」と化しているし、もっと言えば、いますぐ哀しき殺し屋となって、愛する誰かのためにこの手を血に染めたいとすら思っている。

 

1994年の映画をいまはじめて見て感動したってよい。いや、むしろすべきである。流行の背骨を叩き折れ。世間の喉笛を食い破れ。お前の時代はお前が画せ。

 

 ウオオオオーーーーーーーーーーーーーー!!!!!(ジャン・レノのモノマネ)