大根を失くす

今日の買い物の帰り、大根をどこかで落としてきたらしい。あんな重いもの、自転車の前カゴから落とせば気づきそうなものだが、実際いま家に大根はないのだから、どこかで落としたと考えるよりほかない。

 

ところで恥ずかしながら先日、ぼくは財布の中身のカード類を落とした。落としたことに気づかぬまま数日を過ごしたのち、落としたもののなかに保険証も混じっていたために役所経由で連絡があり、警察署に引き取りに行ったのだった。かなり大きな危機だった気もするが、なにせ落としたことに気づいていなかったのだから危機を感じるはずもない。そういえば昔、財布を落としたことにこれまた数日気づかず過ごしていたら警察から連絡がきたこともあった。あまりにぼんやり生きている自分を、我がことながら驚きをもって見つめるしかないが、それはともかくどちらもすんなり戻ってきたことに、この世界が公正に運営されていることに、ぼくは心から感謝した。愛すべき世界。

 

そう、当然のことながらぼくの保険証にはぼくの個人情報が記載されており、今回のように善意の人に拾われればまず確実に戻ってはくるのである。しかしひるがえってどうだろう。大根にはぼくの個人情報は記載されていない。であるからして、落とした大根はどんなに親切な人間に拾われようが確実にぼくのもとには戻ってこず、ごみ箱行きか、よくて拾った人の味噌汁の具になるだけである。あるいは豚バラといっしょに甘辛く煮られるのかもしれない。そこはどうでもいい。

 

保険証と大根のあいだに存在するこうした差はなぜ生まれるのだろう。保険証は戻ってくる。大根は戻ってこない。これを当然のこととして受け入れてもいいものだろうか。ぼくの肉体を構成する(はずであった)大根、ぼくとなりぼくとしてぼくとともにぼくの人生をいっしょに歩む(はずであった)大根が、つまらない紙切れ1枚に価値で劣るとでもいうのか。ぼくは納得がいかない。世界、この罰せられざる悪。ぼくはこの世界を憎む。ゆがんだ世界よ、大根を返せ。