『花咲くころ』という映画を見ました。

深夜アニメ視聴が生活の一部に組み込まれ早やウン年、四季の移り変わりとアニメのクールの切り替わりを同じもののように考えて暮らしてきたせいで、7月開始のシリーズを1本も見ていない現在、ぼくには夏らしい夏もおとずれていない。いまはなんだか記憶喪失者のようにぼんやりして、数か月前まで『甲鉄城のカバネリ』がどうだ『迷家』がどうだといって騒いでいたのがまるで他人事だ。

 

8月4日に見た『花咲くころ』というグルジア映画はたいへん良くて、ほうぼうでおすすめしている。問題は、上映がこの日1日だけだったので、すすめたところで誰もすぐには見られないという点である。

 

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1992年、ソ連邦が崩壊してただのグルジアが戻ってきたころの話。1978年生まれのグルジア人女性監督が、自身の少女期の体験を反映させつつ2013年に作ったこの映画は、映像はどこまでも端正で、女の子たちの着ている服なんかもぼくの目にはおしゃれに映って、現代グルジアの素敵にはかなげなガールズムービーだよ、でも場面によってはぜんぜん通ってしまいそうに見える。

 

だからそこに唐突に「誘拐婚」なんていうモチーフが登場するとき、それまで見てきた日常の光景と、目の前で発生した事態をうまくつないで処理することができず、ただただ困惑する。宇宙旅行の最中にぽっかりと現れたブラックホールに吸い込まれたら、こんな気分かもしれない。

 

自国の因襲を糾弾するために、いちいち美しい映画を撮るという手段を選ぶ人がいるのかどうか、よくわからない。まあ、それも目的のひとつかもしれないとは思うけど、かといって義憤とか嫌悪とか、そういう強い感情を喚起するための描写がなされているわけでもなく、作中の舞台から20年の時を経たいま、 自国の正気も狂気も取り集めて一度お焚き上げでもしようかという別種の強い意志を、どちらかといえば感じる。神社で焚き火を見つめているグルジア人女性を想像してもらう必要はまったくないけど。

 

昨日? あったことがあったのよ、と『悪霊』のリーザが言うみたいに、グルジアではこんなことがあったのよ、とだけ淡々と語る映画だ。こんなこと。歌や踊り、いじめっ子やひどい教師。内戦、窮乏、酒、煙草。暴力、恋愛、怒りに諦め。そしてその他一切のことが。

 

ちなみにというべきか、上映会場のアテネ・フランセの場所をよく確認しないまま、JR御茶ノ水駅から神保町の古書店街を経由して向かったら途中、東京にこんな急な階段あるのかよ、という新鮮な驚きをぼくに与える階段をのぼる羽目になってたいへんだった。東京の高低差に注意をはらって生きる者などタモリしかいないのだから、ぼくが知る由もない。

 

映画を見た帰り、神保町「麺屋33」でつけ麺。

 

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むかし水道橋でアルバイトをしていたときなんかはちょくちょく来ていたお気に入りの店だが、つけ麺ははじめて食べた。おいしい。