アナーキーに生きなきゃ

自分がこんなに困っているのは、内務省がムダに発禁処分をだすからだ。内務省がわるい、カネがほしい。だったら、内務大臣からカネをもらえばいい。1916年10月30日、大杉は、ふところにナイフをしのばせて、内務大臣の後藤新平を訪問した。官邸にいってみると、いがいにもふつうに会えた。後藤に会うなり、大杉はこう切り出した。カネをください。後藤が理由を尋ねると、大杉は、雑誌や本が発禁になって、売ることもできないからだといった。ほんとうのことだ。後藤は納得して、カネをくれた。300円、大金である。(栗原康『大杉栄伝 永遠のアナキズム』p134)

 

仲間内で刷る新聞刷る雑誌、かたっぱしから発禁にされ警察に没収され、いよいよ困ったアナーキスト大杉栄、大正5年のエピソード。会えるのかよ!おおらかな時代もあったものだ。ナイフ持って凸られてるのに、金を融通するほうもするほうだと思う。

 

大杉栄伝: 永遠のアナキズム

大杉栄伝: 永遠のアナキズム

 

 

以前読んだエッセイ集『はたらかないで、たらふく食べたい』がおもしろかったので、同じ著者のものをもう1冊。これじゃあまるでファンみたいじゃないか。著者の人となりはどうだか知らない、微妙なところ、だが書くものがおもしろいのでしかたない。おそらくはこれが著者の専門ど真ん中、今のところの主著と言っていいのだろう。読んでから知ったが、巷ではけっこう評判らしい。

 

栗原さんの文章が普通の学術書と違っておもしろいのは、大杉をはじめとする登場人物の気持ち、主観、内的独白を、歴史的事実の記述の合間にためらいなくばんばん書き込んでしまうところだ。「内務省がわるい、カネがほしい」「恥ずかしい」「殴るしかない」。憑依型とでもいうのだろうか。あとがきで、大学時代の指導教官に「このひとはわたしの弟子ではありません」と言われたと書いているが、たしかに、こういうスタイルが染みついちゃってるような人は、まあ、論文までこの調子ではないとしても、学術的な厳密さを求められる世界での覚えは悪いかもしれない。でもぼくは好きよ、おもしろいから。

 

具体的にですか?たとえば、当時流行りの「テーラー主義」に対する大杉と権田保之助の態度の相違についての解説なんかは、ぼくのそもそもの個人的な関心と共鳴して、ふむふむなるほどと思って読んだ(このへんは『すばらしい新世界』とか『華氏451度』なんかとも響きあう問題圏だ)。ただ、評伝という形式のせいもあるのだろうが、そして著者の文体に依るところもあるのだろうが、大杉の思想について詳細に読み解く、深く掘り下げていくという感じはしない。なんなら著者の定まったひとつの主張が、ぐるぐると繰り返されている感すらある。プラグマティズムがどうしたとかベルクソンニーチェがどうしたとか、大杉が自身の思想を構築するにあたって依拠した哲学思想についての解説も、けっこうざっくり、大まかなものにとどまっている。アナーキズムという思想をもっと学問的にびしっと考究したいのであれば、ここを出発点に大杉本人の書いたもの含めほかの本にあとであたる必要がありそうだ。

 

この本のウリはそういう(大切ながら)こまごました話ではなく、天衣無縫の一人生が機関車よろしくハツラツと驀進していくさまをそこに乗り組んで追体験できるような、読み物としてのおもしろさだと思う。もちろん、こちらとしては1923年の悲劇を知りながら読んでいるので、大杉の一挙手一投足がどことなく悲劇的な色合いを帯びて見えないということはない。だけどそれにしては著者の書きぶりは、ときに不必要なまでに軽く、ひょうひょうとしている。好きな思想家に入れあげるあまり目に涙を浮かべながら書いている感じというか、俗情と結託しちゃってるようなところが本書にはなく、いかにもカラッとしている。それに冒頭で紹介したエピソードもそうだが基本的に大杉のやってることが、そりゃ権力側も怒るだろというくらいにはめちゃくちゃなので、悲壮感ってあんまりない。プライベートでも自由恋愛を標榜して女性に手を出しまくり、そのせいで刺されて死にかけているような人である。大杉栄についてほかで読んだことがないからわからないけど、官憲に殺された悲劇の活動家の伝記でこんなに笑えるということはそうないのではないか(みながみなこう書かれたらまずかろうとは思います)。

 

にしても大杉、すごい。東京外国語学校のフランス語科に入ってからは「一犯一語」(つかまって牢屋にぶちこまれるたびに1つ言語を身につけようというもの。気合が違う)をモットーに語学を学びまくり、「10か国語で吃る」(大杉は重度の吃音だった。「健全」な、「スムーズ」な社会からのはみ出し者としての「どもり」)を自称するまでになった語学好きの大杉は、官憲に目をつけられながらも日本を世界をひょいひょいと飛び回り、アナーキズムを生きていく。これくらいしてくれればこっちとしても安心してグローバルと呼べるというものである。自由!GのYou!

 

しかしまあ、ほんとにすごいのはスケールの壮大さではないのかもしれない。国境を飛び越えたからえらいわけでも、10か国語しゃべったからえらいのでもなく、単純に大杉のまつろわぬ心がえらい。東京にひとり閉じこもり暮らしているぼくのようないじけた人間にしてみれば、いまや自転車1台停めるにも襲いくるさまざまな障壁を乗り越えなくてはならない、清潔で秩序立った箱庭に成り果てた狭き大都市TOKYOでですら、たった100年前にですよ、こんな奔放な生が営んだ人間がいたということ、町のそこここに数々の無秩序の穴をぽこぽことあけまくり、切った張ったのどたばた騒ぎを日々巻き起こしていたということ、これは文字通りに感動的な事実だった。著者はあるインタビューで「明日、東京はありません。」なる名言を吐いているが、それこそ大杉が望んだことかもしれない。チャリくらい停めさせろ!もはやこれは大杉とは関係ない!!!単なる私怨だ!!!!

 

余談というかちなみにというか、大杉栄が学んで自身の活動に活かしたパースやらジェイムズやらのプラグマティズムの思想を、ハーバード大学であのクワインに学んで日本にきちんとした形で紹介し、その後はアメリカ仕込みのガチの分析哲学者にもなれたであろうにその道を捨てて市民運動に身を投じたのが、大杉が金の無心に押しかけた後藤新平の孫、鶴見俊輔である。因果の糸はもつれ、結ばれ。

 

アメリカ哲学 (講談社学術文庫)

アメリカ哲学 (講談社学術文庫)

 

 

鶴見曰く、大杉が「パースやジェイムズについてまとはずれの解釈をしていることは今さら問題にされなくてもよい」。大杉がそこに見て取った倫理が重要である。ここで言う「倫理」とは、ときにわれわれの日常的な「道徳」に真正面から歯向かうような、激烈な性格を帯びる類のものだ。そして鶴見もまた、ハーバードでめくるページのむこうにそうした「倫理」を見てとり、日本の狭い講壇哲学の閉鎖空間を内側から蹴破ったのだった。ただの哲学には興味ありません。

 

大杉栄伝』を読んで思ったのは、人文学だって、そういつも泣きそうな顔ばかりしていなくても、これくらい大げさすぎて笑っちゃうことをぶっ放したっていいよね、ということ、あと、東京はやっぱ自転車にぜんぜんやさしくないよねということ、です。

ペッペルしてくださいませんか

昨年9月のブラートフとプリゴフに続き、今年はペッペルシテイン。なんだろう、モスクワでは秋口に現代美術の有名どころの展覧会を開かなきゃいけない習いでもあるのだろうか。

 

9月21~27日にモスクワに滞在していた。そこでたまたま会った日本の知人に、ロシアの現代美術家・作家パーヴェル・ペッペルシテインの展覧会が開催中であることを教えてもらったので、舞い散る落ち葉の数を数えるのにもいいかげん飽きて時間をもてあまし気味だったぼくは26日、いそいそと会場の"МАММ"(マルチメディア・アート・ミュージアム・モスクワ)に向かったのだった。

 

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 「過去に恋した未来」展ですか。そんなものより俺に恋してみないか。

 

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西暦9000年ごろには地球は人でぎゅうぎゅうになり、もはや人類は一個の生命体として活動している、という絵。

 

言い訳しておきたいところですが、ロシア人もみんな撮ってるんですよ、写真。女子たちが。一眼レフで。著作権の神にはようかんを送っておきます。

 

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西暦2215年、カザフスタン北部に設置された巨大な鏡。

 

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海上の巨大なティーカップ。

 

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西暦2700年、陰陽マンダラ型間銀河巨大ターミナル。

 

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クリスタルに包まれた不死の少女が空から降りてくる。クリスタルに包まれた不死の老人が地底から出てくる。だからなんだっていうの!!ねぇ!!?教えてよ!!!!

 

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世界より大きなロシア。女の子ひとり、森を行く。

 

というような不思議な未来たちの絵が、ところせましというほどでもなく並べられており、思っていたより楽しめた。大概のものは心がけしだいで思ったより楽しめます。

 

ちなみにこの展覧会とは別の階ではAES+Fという、日焼け止めの効き目の指標みたいな名前のアーティストの映像作品が上映されてて、おまけでそれもけっこうおもしろく見た。「さかさまの世界」、世の倫理、秩序がひっくり返った世界。ひっくり返せばえらいってもんでもない気はしますが。

 


INVERSO MUNDUS - YouTube

 

聖地に抱かれ上手

8月18日水曜、ひとりで京都旅行。日帰り。所用でというのかなんなのか、愛知県(母方の実家)に滞在していたのだが暇をもてあまし、それなら京都でも行ってみるかと、まあそういう話。新幹線で3,40分らしいし。

 

午前11時前に着いて、とりあえず朝からやってる有名店「第一旭」でラーメン。野生爆弾の川島みたいな店員さんが関西弁で提供してくれるからラーメンに迫力が乗っかっている。すごい。

 

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すごいうまい。麺がやわらかいのが今どき逆に新鮮。隣の「新福菜館」が休みということもあったのか、食べ終わって店を出るとまだ11時だというのにめちゃめちゃ並んでいた。

 

今回、いちおう南禅寺だけは行こうと決めて、あとの行程については前日の時点でまったく考えなしだったが、行きの車中で地理などざっくり調べまず伏見稲荷に行くことにする。なぜなら『いなり、こんこん、恋いろは。』を最近読んでいるから。

 

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た、丹波橋くん!墨染さん!丸ちゃんも三条さんもいる!みんな幸せになってくれ!!!

 

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千本鳥居をくぐり抜け、

 

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うか様!うか様じゃないですか!外国人観光客は絵馬(絵ギツネ)に描かれたアニメ絵を不思議そうに眺める。

 

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次こそは今回の目的地、南禅寺に行こう。最寄駅は蹴上だそうだが、あれ、サファイア?川島緑輝じゃないか!どうしたんだこんなところで!おーいおーい!

 

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みんな!!!六地蔵

 

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学駅だ!!!

 

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あれ、加藤ちゃん?黄檗

 

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高坂さん!高坂さんじゃん!特別になりたい!

 

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久美子ーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!-------------!????????

久美??子ーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!?!!!!!!!!!!!!!!!!

 

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うまくなりたい……………………!

 

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うまくなりたい…………………………………………!!!!

 

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んぅまくなりたはぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~いぃぃぃん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

というわけでたまたま見つけた『響け!ユーフォニアム』のパネル群を追いかけているうちに大幅に進路を逸れ、宇治市宇治駅近く宇治川宇治橋にて図らずも第12話のあの大感動シーンを追体験したのだった。来てしまったものはしょうがないので、ついでに平等院鳳凰堂を見て宇治抹茶ソフトクリーム。

 

気を取り直して電車で来た道を延々戻り、やっと南禅寺を見学。パッと見南禅寺っぽい、大変南禅寺然とした寺であった。そして哲学の道を端から端まで歩き、銀閣寺方面へ。哲学の道を踏破することでなにかしらの純粋経験が得られることを期待しましたが、何の成果も挙がりませんでした。不満です。

 

ここでさすがに疲労がいったんピークに達したためバスに乗り、出町柳。そこから二股に分かれた川沿いを上流へ歩き、下鴨神社。『有頂天家族』、阿呆の血が騒ぐ!だっけ?

 

夜7時くらい。もう暗くなったし疲れたしお腹も空いたし、夕飯食べてそろそろ帰ろうと思ってうろうろしていると、なんとなく見覚えのある商店街。

 

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洲崎綾さん『第9回声優アワード新人賞』受賞おめでとうございます」。ありがとうございます。

 

おっ、あれは……!?

 

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誰だよ。

 

出町柳周辺でよい飯は見つからず、携帯を充電しがてら(google mapがないと一歩たりとも踏み出せない)ロッテリアでコーヒーを飲んでいたら元気が回復してきたので、最後の気力をほとばしらせてそこから叡山電鉄に乗り「天下一品」の本店に行くことを決意する。えらいぞ!!!!!!!!!!!!かわいいぞ!!!!!!!!!!!

 

茶山駅から15分、小雨降る真っ暗な道を私は歩き、私はとうとう。

 

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うまい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!吉祥寺店と変わらずうまい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!100点!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

【結論】京都は盆地であるにもかかわらず楽しい。

 

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『イングロリアス・バスターズ』という映画を見ました。

このところマメに映画を見ているのは、近所のツタヤでDVDレンタル100円(しかも貸出期間がいつのまにか10日になってる)だったのと、7月から見るアニメがなくって口寂しいからである。これを機会に映画でも見るかと、いそいそと数本借りこんではきたものの、僕は集中力がないので真っ暗な部屋で2時間も3時間も能動的に贅沢な時間を過ごすのには慣れない。ほんとは深夜アニメでラブコメと純愛物だけ1日30分くらいの割合で定期的に摂取していられればそれで世話なしなのだが、世の中そうそう思うとおりに事は運ばない。『からかい上手の高木さん』をアニメ化してくれないだろうか。

 

昨日は『イングロリアス・バスターズ』を見る。ピット、やってやったな!という感じのスカッとする映画であった。ブラッド・ピットって実はあんまりまじまじと眺めたことがなくて、『ファイトクラブ』はかっこよかったな、くらいのものなのだが、本作でもやはりなかなかかっこよかった。

 

なんでこれを見ようと思ったかというと、先日読んで気に入ったこの本で1章割いて紹介されていたからだ。ただ、いま読み返してみたらあらすじが地味に違う。まあいいや。

 

はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言

はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言

 

 

『はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言』。著者は日本のアナーキズム、とくに大杉栄の研究で出てきたバリバリのアカデミズムの世界の人だが、アナーキズム!という強い言葉とは裏腹に、ずいぶん情けない、と言ったら失礼だけど、気の抜けた、と言っても失礼だけど、ふんわりした(これだ)生き方をしている。早稲田で博士号取得後30過ぎで実家暮らし、年金支払いは親の負担、非常勤講師で食いつな、げていないから婚活してみたりバイトしてみたり。昨今話題(?)のいわゆるポスドク。しかしよく考えたら、めちゃくちゃ真面目で堅実な人生を歩む人にアナーキズムを説かれてもイマイチ説得力に欠けるわけで、これくらいでちょうどいい気がする。

 

さて、この栗原さんというかた、めっぽう文章がうまい。と言ってもレトリックが卓抜で詩的とかそういうことではなく、スノッブな感じがまったくない笑えるエッセイとしてあまり頭を使わずに読めるのに、読み終わってみると著者の考えるアナーキズムの骨子についていろいろと勉強になっている、という代物である。惜しげもなく開陳され続ける著者自身のダメダメエピソードとあいまって、良い意味で学者らしくない書きぶり。

 

やたらと合コンに行きたがるとか、合間合間に雑な放射能観をはさむとか、彼の思想信条人となりに全面的に共感できるわけでもないのだが、まあそれはどんな本のどんな著者だって同じことで、そういうの全部ひっくるめ、無政府主義的無責任を社会中にまき散らして現代日本をハックしようとしている感じがとても面白い。いま日本に必要な人物とはジョブスとかザッカーバーグではなくこういう人なのではないかと思ってしまう。いや、けっこう本気で。

 

そもそも帯からしてふるってる。「結婚や消費で自己実現?ウソだ!豚小屋に火を放て!」。ウソだ!から、豚小屋に火を放て!への論理展開が完全に僕の理解の埒外で、何度見ても笑ってしまう。

 

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だからってまあ実はこれ、そんなにふざけた話でもなくて、1923年の甘粕事件で大杉栄とともに憲兵隊に殺された(ひどい話だ)アナーキスト伊藤野枝を扱った章の題名である。「豚小屋に火を放て――伊藤野枝の矛盾恋愛論」。豚小屋もすごいが矛盾恋愛もすごい。不倫万歳、家制度くそくらえの伊藤野枝の思想が、著者のゆるゆるリズミカルな文体(やたらひらがなにひらく)にドライブされて迫力を持って迫ってくる。「家」なんて字はそもそも豚を囲う小屋をかたどったものなんだ、ふざけんな、火ぃつけろ、そこから逃げ出せ!というメッセージはなんとなくではあるが、浅田彰の「逃走」とか上野千鶴子の「亡命」とかいう発想から地続きであるような気もする。

 

本書をケタケタ笑って読んでいてはたと気づいたのは、僕が日々ただひたすらラブコメとか純愛物のアニメ・漫画を欲するのって、要は無私の恋愛感情に突き動かされてめちゃくちゃになってる人間を見るのが心地よく、自分もかくありたい!と願うからではないだろうか、ということで、そうなると僕の趣味もずいぶんアナーキーじゃないですかね。そういうことにしておいてほしい。「責任」なんて言葉は、湯浅比呂美や谷川柑菜や比良平ちさきの恋の旋風を前にしたら、一握りの灰ほどの価値もない。海に撒かれて仕舞いである。そう考えると、東城綾はもっと捨て身の恋愛を決行せねばならなかった。

 

『バケモノの子』という映画を見ました。

吉祥寺の映画館オデヲンは誕生月1100円だそうだ。ありがとう。最近はアニメを見てると、これ小中のころの自分に見せてあげたかったなあ、小さいころならもっと素直にのめり込めたなあと思うことが増えて、なんともやるせない。『バケモノの子』も、けっこう楽しめたけど、余計なことを考えてしまう。余計なのかな?

 

花とアリス』にいまさら大感動している人間にそんなこと言われる筋合い完全に、留保抜きでないとは思いますが、細田守って家族観というか女性観というか(突き詰めれば同じことだが)が絶望的に古臭い感じがして、これを素直に楽しんでる自分、ありなのだろうかと躊躇する。『バケモノの子』も、楓ちゃんはなに?とか思いつつ見ていた。小学中学のころだったらただ普通に好きになってたはず。いや、今でも好きだ!!!楓、好きだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

それこそが問題なのだろう。まあそれでも『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』ほどは「エグく」なかった気もしますけど。だからあれです、ここは細田守がもういっそ開き直ってただの美少女アニメを作ってくれることを願うしかない。そうすれば大事なことみんな忘れて僕だって自壊するのに。

 

頼む!!!!!!!!!!!!!!!!!!少年の成長とかいいから!!!!!!!!!!!ここはひとつ頼む!!!!!!!!!!!!守!!!!細田守!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!MA・MO・RU!!!!!!!!

 

映画ののち西荻窪のラーメン屋「麺尊RAGE」で煮干しラーメン。まぜそばは残念ながら売り切れ。

 

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こういう煮干しのスープ、最近多い気がします。流行りなんでしょうか。これ、名前が「煮干しそば」なんですけど、あんまり上品な魚介系の出汁を取るとほんとに蕎麦になっちゃいますからね、煮干しくらいジャンクじゃないとラーメンにならないのかもしれない。

 

そのあと同じく西荻窪「三ツ矢酒店」に寄って人にあげる日本酒を買う。ずらっと並ぶ日本酒を眺めているのが楽しい。ぼく昔から「能書き」というものが大の好きで、よく和菓子の箱とかにお菓子と一緒にほら、このお菓子は和三盆を使用しておりまして……北海道産選りすぐりの大納言を煮た餡でして……うんたらかんたら……みたいな説明が入ってるじゃないですか、ああいうの片端から読んでたんですよね。だからそういうのの延長で日本酒のラベルも見ている。能書きを垂れるな!というのが世間的な了解なのかもしれないが、ぼくとしてはガンガン垂れ流してほしい。

 

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自分のは自分ので買って飲む。

『花とアリス』という映画を見ました。

花とアリス』という映画を見ました。2004年の映画だそうですが、誰も知りませんでした。

 

蒼井優かわいいよーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーートントトントトントトントトントトントトントぽぽんこぽんぽこんぽんぽんぽんぽこぽこぽこぽこぽこpこpこいアパスタア・パスタパスタオアスタイイイいぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっぅうっぅうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっぅぅ痛

ンダイッサビリビリヤーーーーーアマーーーーーーーーーアマーーーーーーーーースッポロビンディーーーーーーーーーーーー、ンディーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー鈴木杏もかわいいですけどねーーーーーーーーーーーあああっあ、

アプ

会おう、青生、絶!!!!!!!!!!!!絶毛(ぜつもう)!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

!!!!!!!!!!

ドギャスコ

そう、

ドギャスコ。

いまだひらかれたことのない、パパイヤ。

 

蒼井野菜優ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

照り返し

そう、

照り返し。

 

人には人の乳酸菌(カミツレを砂糖で煮て干したもの)。

いずくにか、伊豆大島

三連休、友人を訪ね数名で伊豆大島へ。このほとんど死に体のブログを見返してみると自分、去年の夏も花火だ高尾山だと一応レジャー行為には及んでいるらしいのに、この人生満喫感のなさはどうしたことだろう。

 

18日22:15発の船で竹芝桟橋を出港。船上で開始した酒宴で飲みすぎ、19日午前の旅程をすべてすっぽかしたが、旅程はつつがなく終了した。

 

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19日の夜に食べた刺身。真ん中あたりに写っている「べっこう」という青唐辛子入りの白身魚のヅケが名物らしい。おいしい。

 

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道の駅的なところで食べた椿ジャムアイス。めちゃめちゃうまい。そういえば大島椿って有名ですよね、聞いたことある気がする。この旅行、ぼくは基本食って飲んでいただけであった。

 

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大島のスーパーに貼ってあった十六茶の広告。上原が若い。

百日紅×百日紅

NHKに『コメディーお江戸でござる』っていう番組があって、小さいころ好きでよく見ていた。本編の喜劇も面白かったけど、それが終わったあと、江戸文化研究家の杉浦日向子さんが出てきて解説をするパートも好きだった。彼女の本をきちんと読んだこともなく(父が持ってた『ソバ屋で憩う』を眺めたことはある気がするが)どんな人なのかあまりよく知らなかったので、なんか顔の丸いほわんとしたおばさんが江戸に詳しいぞ、とか思いながら見ていた。というわけで、彼女が亡くなったときはなんかほわんと悲しかった。

 

そんなことを先月、杉浦日向子原作の『百日紅』というアニメ映画を見て思い出したのだった。葛飾北斎こと鉄蔵とその娘栄(えい。絵師としては葛飾応為の名で有名)、北斎の弟子の善次郎らを中心に、江戸の風俗、有名絵師たちの日常を淡々と描く、だけでなく江戸の都市伝説、怪談みたいなものも織り交ぜつつすすむこの作品、台詞回しがキビキビと小気味よくて、すばらしくよくできた時代劇だった。

 

まあそもそも時代劇は好きなのだ。それで原作の漫画のほうも買って読んでみた。するとそこでアニメ化の際に原作から改変がなされていることに気づき、それがけっこうよい作品解釈になってるなあと思ったので、記憶が萎まないうちに感想を書いておこうと思う。

 

百日紅 (上) (ちくま文庫)

百日紅 (上) (ちくま文庫)

 
百日紅 (下) (ちくま文庫)

百日紅 (下) (ちくま文庫)

 

 

 『百日紅』、漫画のほうは連作短編という形を取っていて全話を串刺しにするストーリーらしいストーリーはない。またそれがしょっぱなから生首の話だったり、あるいは登場人物の女性が強姦される回があったり、けっこうえぐいというか大人向けのエピソードも満載だから、なるほどこれをそのまま文科省推薦全年齢向けアニメ映画にするのは無理があったのだと分かる。

 

じゃあどうするか。この作品が北斎、お栄、善次郎らにフォーカスして進んでいくのは原作も映画も同じだが、映画のほうにはもう1人の中心人物がいる。生まれつき目が見えないために尼寺に預けられている北斎の末の娘、猶(なお)である。映画はこの子を1本の軸として物語が進む。

 

切禿(=おかっぱ頭。尼寺に入ってるからね)がかわいいお猶、目が見えず体が弱く、「おとっさん」思いのけなげな女の子であるお猶は、妹思いのお栄に江戸の町をほうぼう連れまわされ、橋を行き交う人びとの物音に耳を澄ませたり、船に乗って水の感触を知ったり、雪にはしゃぎすぎて風邪をひいたり、映画全編にわたってとにかくかわいらしく魅力的に描かれている。

 

ところがこのお猶、漫画ではどういう扱いかというと、僕の持ってるちくま文庫版だと下巻の最後のほうに収録の第28話「野分」にしか出てこない。「野分」のエピソードはこれだけで非常に印象的で、映画のほうにもそっくり採用されてはいるのだが、とにかくお猶、原作では別に中心人物でもなんでもなく、橋も船も雪も知ったこっちゃない。

 

「体が弱くてけなげな女の子(障害があったりするとなお良い)」に焦点を当てて感動を誘うというのは、露骨なお涙ちょうだいの創作物でさんざんに使い尽くされた古臭いもの、とは誰でもそう思うんじゃないだろうか(好き嫌いはまあ別としても)。実は映画を見終えて漫画を買うとき新宿紀伊国屋書店で最初に確認したのが、猶がアニメ制作者たちのオリジナルじゃないかどうかということだった。猶という子が、江戸文化の時代考証に熱意を燃やしリアリティのある時代物を作ろうとした原作者の意図したキャラでない、現代的な情緒への安易なすり寄りの証だったとすればアニメ版の評価は下げざるをえないと思ったからなのだが、その心配は一応のところ杞憂に終わり、ほっとして原作の方も購入したという次第だった。

 

とはいえ猶の扱いが原作から大きく逸脱していることに変わりはない。映画における猶の扱いをどう見るべきか。単純にファミリー向けの感動物語に仕立てなおすための道具という見方もできるだろうし、製作者にそういう意図が0だったわけでもないとは思う。それは別にさほどの悪でもない。先ほども述べたとおり、原作はそれだけでは1~2時間の長さの物語にはならないぶつ切りの短編集であるから、原作を壊さない範囲で何かしら芯を入れないと映画として成り立たない。

 

そこで原作では「野分」1話にしか登場しない端役と言ってよいお猶が重要人物に据えられたわけだが、これは悪くない選択だったと思う。なぜなら目が見えない猶という人物を前面に押し出すことは、彼女の「弱さ」で観客の感情をガシガシと駆り立てるというだけではなしに、徹底して「視覚の人」である北斎と、視覚というものが存在しない世界、大天才の北斎が自分の目と筆だけではどうあっても到達しえない世界に住む猶、という対比を強調し、画家北斎、もっと言えば人間北斎の業みたいなものをうまいこと浮びあがらせて新たな『百日紅』を構築したように思えたからだ。映画『百日紅』は原作『百日紅』の28話「野分」をうまく解釈し、ふくらませた作品と(も)言える。

 

「野分」は、病気になって尼寺から後妻の家にいったん引き取られてきたお猶に北斎が久々に会いに行くというお話だ。そこでお猶は父親の顔を触り、この人が父・鉄蔵であることを「見る」。このとき場面は暗転し、暗闇の中に猶と北斎だけがぽっかり浮かびあがる。にゅっと伸び上がるお猶の白い手。その手につかまれ、暗い、深い淵を無理やりに覗きこまされたかのような、なんとも言えない北斎の顔。自分が「見る」のとはまったく違う「見る」が存在するということ、恐怖。

 

アニメでもこのシーンは採用されていて、アニメ全体のそれこそ浮世絵のようなはっきりした色彩の連続と好対照を成している。活気あふれる江戸を描いて描いてののちに唐突に現れる暗闇には、ドキッとする。

 

お栄が甲斐甲斐しくお猶の世話を焼く一方で、北斎が猶に会うことを、なにかを恐れるかのように執拗に避ける描写が映画のほうには繰り返し出てきて、そのせいで北斎はお栄に、娘がそんなに恐えのかよ!と罵倒されたりするのだが、江戸を、というか日本を代表する画家が唯一恐れるのが、目の見えない実の娘であるというのは非常におもしろいところだ。

 

その点お栄の言動には、お猶への恐れ、気後れみたいなものは感じ取れない。それはもちろん彼女がお猶を産んだわけではないから、姉というある意味では気楽な立場だからというのと同時に、お栄がまだ自身の画家として自分の才能を完全には自覚していない、発揮していないから、ということもあると思う。たぶん。暗闇の怖さをお栄はまだ知らない、知れない。

 

映画の最後、北斎がポツリと漏らす映画オリジナルの台詞が、自らの才能と引き換えに目の見えない娘を作ってしまった自分という人間へのいたたまれなさを表現している。お猶は障害を持っているという点では「弱い」存在だが、「野分」で見せる神秘的な感性の数々はとてもとても「強く」、それはときに北斎のような傍若無人、向かうところ敵なしの才能すら脅かす。まあ、障害者だけが持っている特別な感性、みたいなとらえ方をすればそれはそれでまた陳腐にもほどがあるモチーフではあるのだが、芸術家がほかの才能に、あるいは人の親が我が子に、いだいている潜在的な恐怖とでも言うべきものをえぐりだしたという点では、映画『百日紅』におけるお猶の盲目の扱い方は、通り一遍のダサさは免れてうまく機能していると僕は思った。ま、感想としてはこんなところです。

新海的恒例

言の葉の庭』、去年も7月ぐらいに見てたらしい。やっぱり梅雨の時期(明けてないよね、まだ?)には一度見ておきたいというのがあって、今年もツタヤで借りてきた。これにしろ『秒速』にしろ、そんなに好きならDVD買えばいいじゃないと自分でも思うが、好きだから手元に置いておくというのがなんだかとても非新海的な営みであるような気がして、踏み切れないでいる。非・新海的。まあ、逆に新海的営為というものが日常に踏み込んできたとして、それはそれで生きづらそうな気もするけど。

 

アニメ、7月からのクールではピンとくる作品が1本もなくて見ていない。毎週何曜はこれ、と決めて深夜にアニメを見るのは、まあ時間を取られると言えば取られるのだが、しょせん30分だし、生活にリズムが出るので調子がいいと言えば調子がいい。というわけで今はなんだかふわふわ落ち着かない毎日を送っているが、一方で体が軽いというのか、妙な解放感も味わっており、そろそろ潮時かな、アニメばっか見てる年齢でもないのかな、としんみり覚悟してはいる。ちなみに6月までは『響け!ユーフォニアム』が大変良くて(特に8話と11話)、なんだ僕もスポ根もの(スポ根ですよね、あれ)に感動しちゃうタイプの人間だったのかとがっかりした。京アニえらい!

 

アニメ見てないとか言いつつ、別にその埋め合わせというわけでもないけど今日は『言の葉の庭』だし、先日は『楽園追放』を借りてきて見た。『サマーウォーズ』と似ていなくもない設定で、それの50倍はおもしろいSFだと思ったが、結局幼い女の子が出てきて裸になってドンパチやって年上の男性に感化されないとダメなんですか、それって男の夢なんですかと、ちょっと鼻白んだのは事実である。以前『マルドゥック・スクランブル』のアニメ3部作を見たときも同じようなことを思った。なるほど現代日本、笙野頼子が怒って面白いことを書くわけである。

 

あとは、ツタヤがタルコフスキーはじめました的な感じだったので、借りて見ている。

正代さんはつらい

正代さん復帰したんだね。実際に動いているところを見られるのは嬉しい。

 


2014.11.23 西部日本剣道大会 正代賢司 1回戦 - YouTube

 

今日は渋谷ユーロスペースで『神々のたそがれ』を見る。3時間はキツいという意見もチラホラリだったが、寝不足の状態で見に行ったのがかえって功を奏したか、うつらうつらと気楽に見られた。映画館を出ると雨。どこの星でも雨はつらい。

松果体、溶かして

今さらながら『アナと雪の女王』を見る。ディズニーアニメなんて久しぶりに見たけど、なんだろうね、ほんと、心があったかくなる。見終わってキムチ鍋食べながら「心があったかいなぁ」とひとり声に出してつぶやいたくらいだから。いやまぁ、キムチ鍋があったかかっただけって可能性もないではないけどね、心と体は2つで1つなんだ。じゃあなにか、「松果体があったかいなぁ」とでも言えばよかったのか。教えてくれよ、なあ、助けてくれよ。

 

あの映像を見てると紙芝居のような深夜アニメを見ているのが馬鹿らしくなる(比べてはいけない)けど、それより驚いたのが話の展開のスピード感ですね。説明不足、なにかを取りこぼしている感じがまったくないのに序盤からものすごい速度で物語が進んでいく。考えたけど、子供が見ることが前提にあるんでしょうね。100分ってまぁ映画としてそんな長いほうではないけど、ちっちゃい子は2時間超えたらきつそうだし(根拠はない)、そこにいかに無理なくストーリーを詰め込めるか、そして「詰め込んでる」という感を見せないか。これっすわ。いやー、ディズニーって、ほんとうにいいもんですね。

ラーメン、思い出す。

変な時間に起きてろくにご飯も食べていなかったので、ほかの用事ついでに吉祥寺に出てラーメンでも食べようかと思ったけど、最近の吉祥寺にはどうもあんまり魅力的なラーメン屋がないような気がして(もちろん僕の好みからしたら、ということだけど)なんとなく出かけるのをためらう。

 

そういえば、とネットでラーメン屋を検索しながら思い返す。数年前吉祥寺をぷらぷら歩いていたとき、その少し前に同じ道を通った時にはなかったラーメン屋が、小さな居酒屋を昼の時間帯だけ間借りして開業しているのを偶然見つけたことがあった。何の気なしに入ってみたら、出てきたラーメンが驚くほどおいしい。そのころはまだ吉祥寺に好きなラーメン屋がいくつもあった(これらは今はもう全部なくなってしまった)のだが、それらと比べても飛びぬけてお気に入りの味で、またひとつ吉祥寺にいい店がオープンしたなあと思ってひとりでほくほくしていた。ところがしばらくしてもう一度行ってみるとそのラーメン屋は居酒屋の建物ごとなくなっていて、名前もよく覚えていないあのラーメン屋はいったいなんだったんだ、夢でも見てたんだろうかと至極残念な思いをしたのだった。

 

さて、ラーメン屋の情報を逐一事細かに追いかけていればこんなこととっくの昔に判明していたんだろうけど、今日になってはじめて、そのお店は立川の駅前にきちんと店舗を構えて営業中ということを知った。お店の情報を見ているうちに、吉祥寺に火のように現れ煙のように消えたラーメン屋で一度だけ食べた味が口内に湧き上がってきて矢も盾もたまらなくなり、なんの用事もない立川に数年ぶりに出かけて食べてきた。「チキント」というお店。吉祥寺でやってたときは「くれちゃんらぁめん」だったらしい。そう言われてみればそうだった気もする。

 

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なるほどこんな味だった気がする。

九月、モスクワ、ポストモダン

『グラスリップ』、最後の方は毎週ひとりで爆笑しながら見ていた。あまりの意味不明な展開に一部の批評家の心をがっちりとらえ、ネット上ではある意味けっこうな話題になっているようだ。最初数回の感じでは『true tears』とか『凪のあすから』ばりのどろどろ昼ドラ展開が期待されたのに、昼も夜もない僕の知らない宇宙に突き抜けて行っちゃった感がある。今まで見たアニメの中でも屈指の意味不明さ。どうしちゃったの、P.A.WORKS。笑うに笑えないぞ。笑ってたけど。

 

それはそうと、今月中旬にモスクワに行った。ちょうど滞在期間中に、クレムリンの目の前にある Центральный выстовочный зал "Манеж" でエリク・ブラートフ展開催中という情報を事前にキャッチしていたので、まー見た。

 

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ロシアでは美術館でも普通にみんな写真をバシャバシャ撮りまくっている。昔行ったエルミタージュ美術館でも写真はOKだった記憶がある。ブラートフ展でも絵の前で記念写真を撮っている人がいた。ロシアのそういうぬるさは楽である。

 

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 「水平線」

 

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 「寄りかからないでください」

 

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「天国」

 

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 「私の路面電車が行ってしまう」

 

思った以上に面白くて、ブラートフTシャツまで買ってしまった。

 

別に僕は美術に造詣が深いわけでもなんでもないただのクソ野郎なのだが、他日、そういえばトレッチャコフ美術館の20世紀美術のほうの建物には行ったことなかったなと思ってふらっと行ってみたところ、そっちではたまたまプリゴフ展をやってて、なんとポストモダンなモスクワだろうとひとりごちたのであった。

 

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あわれな掃除婦のために』と題されたインスタレーション群があって、そこで流されていたアニメーションが非常に面白かった。これのDVDがあったら欲しいなと思ったくらいである。しかし残念ながらプリゴフ展に関係するお土産は高価な画集くらいしか置いておらず、思い出だけ抱いて僕は美術館をあとにしたのであった……。

川を愛する人は

夏と言えばレジャー、レジャーと言えばリア充リア充と言えば恋愛。

 

間違っている。そんなテーゼは根底から間違っている。晩夏の太陽が貴様を許さない。

 

というわけで、夏生まれでありながらリア充でもなく恋愛に縁もなく体の80%が寒天でできているこの僕が、2014年7月末から2014年8月末までの、人とまったくしゃべらない1か月を通り過ぎたのち慣れないレジャーを2つほど楽しむこととなったのは、人に誘われてのこのこ出ていった結果にすぎない。

 

①亀戸の花火大会

 

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 なんというか、花火のドライフラワーといった風情の写真である。スマホで花火をきれいに撮れるわけあるか畜生。貴様の心のフィルムにしかと焼き付けろよ。

 

②高尾の3000円の宿に一泊して飲み

 

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 川を愛する人は人を愛す人。

「文学的な言葉で政治を語ることは可能か、またそれに意味はあるのか」という問いを立てることに意味はあるのか、そんな議論はやめてうどんを食べたほうがいいんじゃないのか

毎週木曜日は『グラスリップ』。これは最高のアニメである。説明は要らない。愛さえあればそれでいい。

 

ところで最近知り合いの女性が「若者文化を知りたい」と老女みたいなことを言いだし(僕よりは年上で既婚だが、別に、まだ全然若い)やおらTwitterを使いだした。Twitterが果たして「若者文化」なのかという至極ごもっともなツッコミは捨て置くが、彼女はそこで僕が『グラスリップ』のことを褒めそやしていたら興味を持ったみたいで、「若者文化を知りたい」と言って見始めた。再度湧き起こるある種の疑問は捨て置き、彼女はなかなか気に入ったらしく、その旨をTwitterのDMで知らせてきた。

 

その1時間後、なぜか我々は「文学的な言葉で政治を語ることは可能か、またそれに意味はあるのか」という問題(だったと思うんだけど)をめぐって激論を交わし始め、その後4,5時間にわたって朝までメールを投げ合うことになる。今思い返すだに意味が分からない流れである。

 

そして、そんな大雑把な議論にまともな結論が待っていようはずもない。「政治」とか「文学」という言葉の定義からしてそもそも始めからズレがあるわけで(僕は一応そこは最初から指摘していたのだぞ、と言い訳はしておく)当然議論は紛糾する。私のほうは、政治は政治的な言語で語るべきだ、という意見だったのでその知人の非論理性、曖昧さ、恣意的な語り口を攻撃し続け、彼女は彼女で、政治を政治的な言語に押し込めることが権力者にとって好都合であることを主張し続け、2人そろって朝日にこんにちは。こうした青春じみた不毛さは知人曰く「すごいグラスリップ」。意味が分かるような、分からないような。われわれ、老いてはいないがさりとて「青春」の2文字が似合う齢でもない。

 

まあ結局最後はお互いもっと勉強だ、仲良くしようという無難なところに不時着し、僕が知人に最近食べたうどんの写真を送りつけて話は終了した。

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三鷹のうどん屋「五図」のすだちおろし醤油うどん大盛り)

 

さて、このような経緯をたどって今僕は眠い目をギョリギョリさせながらブログを書いているわけだが、それは「文学的な言葉で政治を語る」ということの意味を考えていてふと思い当たった具体例があり、それについてちょっとメモっておこうと思ったからである。

 

最近僕は『ボラード病』という小説を読んだ。批評家の佐々木敦含め、ネットでけっこういろんな人が褒めていてなんとなく気になっていたところ、古本屋でたまたま安値で売っていたのを発見し購入した次第である(余談だが三鷹の水中書店、なかなかいい古書店)。

 

ボラード病

ボラード病

 

 

これを読んでみて僕は正直まったくいい小説だとは思えなかった。いや、面白いと言えば面白いのかもしれない、だが文学としては全く評価できないと思った。それはなぜかとずっと考えていたのだが、それはこの作品が「文学的に政治を語る」ことに終始しているからではないか、と先ほどの知人との議論の末思い当たったのである。

 

これは一種のディストピア小説で、あんまり語るとネタバレになっちゃうのでネタバレフォビアの僕としてはこの不気味な雰囲気をたたえた小説の内容の詳細に触れるのは控えようと思うが、これを読んで感じたのは、この小説が今の日本の全体主義的(と、保守的な思想を嫌う一派が呼ぶもの)な雰囲気をそっくりそのまま書き起こしたものだということである。それはつまり、ある特定の思想に小説という手法が追随した、もっと悪く言えば阿った小説であり、いわゆる「作者の意図」みたいなものが丸わかり、というかそれのみによって成り立っている小説だということである。

 

小説が社会の雰囲気の追認にあくせくしてどうすんだよ、と僕は大いに不満だ。先ほども言ったようにこの小説、結構人気があるらしいし、けっこういろんな批評家が褒めてる。でも僕が思うのは、この小説は作者が今の日本に蔓延るある特定の風潮に疑義を呈しているだけであり、作者と同じくそういうものに否定的見解を持つ読者ならば或いは面白く読むのかもしれないけれど(というか僕も本書が批判的に描く今の日本の姿に対しては同じく批判的ではあるのだが)、それならばわざわざ160頁もの小説を書く必要はない、10分の1でも多いくらいの小論文で事足りるということである。同じく『ボラード病』を読んだ人の中でTwitter上でひとり「作家の能力ってこういうまとめ能力のことなの?」的なことを言っている人がいたが、ほんと、この小説は著者の政治的思想のレジュメ以外の何物でもない。そしてレジュメならばもっと簡潔に書けるはずである。

 

『ボラード病』は、意図的に平易にしたと思われる文章の随所に、違和をはらむ表現、あるいはもっと直接的に、人が唐突に死ぬ描写などを混ぜ込むことでラストに向けて徐々に読者の不安をあおっていき、最後この小説内部の世界が逃げ場のないディストピアであるという種明かしをすることによって(なんかまるで「世にも奇妙な物語」の一エピソードみたいだ)「文学的に政治を語る」ことに成功していると思う。だが、その「成功」は僕の目には、この作品が文学的な言語としても政治的な言語としても中途半端であることの証明としてしか映らない。ついでに噛みつくには敵として強大過ぎる気もするが、ディストピア小説の白眉たるオーウェルの『1984年』が嫌いな理由もそこにあるんだろうと思う。文学は文学、政治は政治。『1984年』を引用して安倍政権を批判したって何の意味もない。政治批判がしたいなら、政治のために紡がれた論理的な言語で正面からすべきだと、僕はいまんところ思ってる。

 

めちゃめちゃ悪しざまに言っといてなんだが、僕はこの小説について人に話したくてうずうずしてたのも事実である。「あんまり面白いとは思えないんだけど……」とか言いつつ人に紹介してるってことは、ある意味著者の術中にすかっと嵌まってるってことなのかもしれない。悔!