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『ユーラシアニズム』について、備忘録代わりに。

書評というにはごちゃごちゃしている。

 

アメリカのジャーナリストの手になる『ユーラシアニズム ロシア新ナショナリズムの台頭』(NHK出版)、おもしろいかおもしろくないかだけでいえば、知らない情報満載でなかなかおもしろい。一方でこのおもしろさは少々あぶなっかしいのでは、ということも推察される。「推察」という言葉でお茶を濁すのは、正直なところぼく自身、この本にどういう態度でのぞむべきなのか判断がつきかねているからだ。

 

ユーラシアニズム―ロシア新ナショナリズムの台頭

ユーラシアニズム―ロシア新ナショナリズムの台頭

 

 

今年の9月末に出版された500ページ超えの本書について、11月13日付の日経新聞には、ロシア・旧ソ連の政治が専門の大串敦氏による書評が掲載されている。新聞の書評としてはかなり辛辣なトーンで書かれていて、本書を「ロシアの陰謀論に関する陰謀論的解釈の書」と揶揄的に呼んでいる。また、ロシア政治史の分野で名の高い塩川伸明氏が自身のウェブサイトに読書ノートとして載せておられた短い評でも、本書の学術的な価値に疑問符が投げかけられている。出て早々、専門家にこれだけ冷たくあしらわれる翻訳物というのもなかなかめずらしい。

 

ただこうした反応ももっともだといえるようなアラを本書は持っていて、まず全体を通して見たとき、構成が歪というか、論の流れがあまりスムーズでないように思える。本書は3部構成なのだが、ロシア革命期、言語学者のトルベツコイやヤコブソン、地理・経済学者サヴィツキーといった亡命知識人が、ボリシェビズムに代わるイデオロギーとしてのユーラシア主義を創生するにいたる顛末を描いた第1部と、ソ連時代の歴史家グミリョフが、反ソ的な傾向を持つユーラシア主義を、幾度も強制収容所にぶちこまれろくな資料もないなかで想像力を爆発させて発展させていく様子を描いた第2部までが、思想の内容とそれに対する社会の反応を交互に見つつまとめていく思想史然とした体裁を保っているのに対し、本書の半分以上を占め、著者がもっとも力を入れたであろう第3部では、「ユーラシア」という概念をめぐるナショナリズム思想の解説という性格はずるずると後景に退いてジャーナリスティックな色合いが濃くなり、プーチンとその周辺の言動やら、反政府ナショナリストたちの行動の背景やら、ウクライナのデモの内幕やら、現実の政治と人間関係についてのかなりあやふやで細々した(些末な、とすらいいうる)情報がこれでもかと羅列されていくことになる。大串氏の書評にあるとおり、第2部までで語られたユーラシア主義と、哲学者ドゥーギンが唱道し政権運営にも影響を与えていると著者が主張するネオ・ユーラシア主義のつながりはほとんど見えてこず、なんだかかゆいところに手が届かない、もどかしい思いに駆られたし、現代ロシアの錯綜した政治状況に通暁しているでもない自分としては、一体どれだけ出てくるんだという人物名や政党・政治団体名を頭の中で整理しきれずいっぱいいっぱいだった。また、たとえば1993年のモスクワ騒擾や2014年のウクライナのデモにおいて、誰が誰を最初に撃った撃たないという陰謀論めいた記述が、ロシアのナショナリズムの興隆という本書全体の論旨にどう関係してくるのか、ぼくにはいまいち分からなかった。

 

冷静に考えれば、ロシア革命から現代までまるまる1世紀の、これだけジャンル的にも多岐にわたる膨大な情報を1人の人間が1冊の本のなかでうまくさばききれないのは当然といえば当然で、第3部もあんなに不確実な情報を盛り込まないで思想史的な記述をつらぬくか、あるいは第1,2部と3部でそれぞれちがう本にしたほうがよかったんじゃん? という感想は出てくる。*1

 

かならずしも全体として緊密な論理構成を持っておらず、情報の質に関してもムラのありそうな本書に、政治・歴史学のプロが「気をつけよ」とシグナルを発するのは理解できる。内容的にとりわけ批判されているのが現代ロシアの政治とネオ・ユーラシア主義のつながりについて考察した第3部で、それは先ほども述べたとおりの込み入りぶりなのだが、ただそこで紹介される情報の価値を判断するのに、専門家の力をもってしてもかなり難儀してるっぽいことの背景には、そもそも今の日本に、現代ロシアにおける哲学・政治思想の中身とその社会的影響について、ドゥーギンをはじめとする幾人かのキーパーソンと直接コンタクトを取り、足で稼いだ情報をそれなりの量提供してくれている著者の見解を批判的に吟味できるだけの材料が、まだあんまりそろってないということがあるのではないか。昨今のロシアのアグレッシブな軍事行動に対する危機感もあってか、あるいはもともとロシア研究の素地が厚いからか、 アメリカではネオ・ユーラシア主義についてはそれなりに関心が高いみたいで、ドゥーギンの著書の翻訳や彼の思想を扱った研究書などもいくつか出ている。すくなくともこの点に関しては日本は立ち遅れているわけで、本書の価値を裁断するためには、塩川氏のいうとおり、本書の記述を相対化できる研究がほかにも出てくることが望ましいのだろう。 

 

もちろん、そんな哲学思想なのかプロパガンダなのかすらよくわからないものに依拠しなくても、いくらでも現代ロシアの政治は論じられるし論じられてるというのはまったくその通りではある。ドゥーギンなんて、ソ連の7,80年代のかったるい雰囲気がいやで、若気の至りでサブカルっぽくファシズムにハマったらそのままでいっちゃった、かなり怪しげな思想を振り回しているやつだし、眉に唾つけて当たろうあるいはハナから無視しようというのは賢明な判断かもしれない。が、そうこうしている間にアメリカではジャーナリストが1冊分厚い本を書いて、それをロシアの専門家ではない人間が訳して日本に紹介しちゃったわけで、良し悪しである。好き嫌いは別として、現代ロシア政治の混沌とした現状の思想的な背景を、本書のように人文学の分野含めて多面的に探るということもあってしかるべきだと思う。

 

文中で言及する著作に学術的な価値のあるものはほとんどないと著者が言い切り、そもそも提唱した本人たちですら、みずから構築した思想をさほど信じていない様子の「ユーラシアニズム」という不思議な現象の影を追った本書は、ではなぜそんなよくわからない思想が姿かたちを変えつつ現代まで生き残り、プーチンの口の端にのぼるくらいの影響力を持っちゃったのかという点を解き明かすことを目的にしている。*2人文学を学ぶうえで、すぐれた海外の思想文化に耽溺することは大きな喜びだが、それをそのまま輸入紹介することに第1の目的を置いて思想の内的な整合性と価値にのみ注意を向けていると、思想がなんらかのイデオロギーに沿ってゆがめられ、とりたてて学術的な価値がありそうもないのに社会を動かす力となっているという、一筋縄ではいかない状況をジャーナリスティックに追求するという視点はどうしたって抜けがちで、そういった意味で個人的には、本書の提起する問題には痛いところを突かれた感がある。みなさん、ロシアでは人文学役に立ってますよ、やばいくらいにね(?)

 

本書はまず、ふだんからロシア文化にサブカル的な魅力を感じてる人なら手に取って損のない1冊だろう。グミリョフの創出した歴史学とSFとオカルトの混紡に触れてみるといい、強制収容所の過酷な環境のなかで練り上げられた彼の思想は、トンデモにしてもそこらの腰のすわってないトンデモとは迫力が違う。マムレーエフ、ゴロヴィン、ドゥーギンといった固有名詞で語られるソ連のアングラ文化の一端に触れられるのも貴重だ。ここでやはり危険なのが、本書がなんだか事実としては〈おもしろすぎる〉という点で(大串氏もそのおもしろさは、皮肉としてではあるにせよ「スパイ小説」という言葉を使って認めている)、著者が、直接親交のあるドゥーギンをはじめとして本書で紹介する思想家たちの人間的な魅力に、彼らを小馬鹿にしつつ多少憑りつかれちゃってるようにも見えるところなどは、差し引いて考えつつ読まねばならない。だから今後本書の提起する問題についてはアカデミックな精査が求められるが、学術的には……毒を取り除けばフグ並みの高級食材となるのか、あるいはただ単に幻覚と腹痛をもたらすだけの毒キノコなのか、それはどうも読み手の腕次第というところになりそうである。

 

本書の繰り出す物語をただただおもしれ〜と思って読んでいたぼくには恥ずかしながら、本書の価値を十全に見定めるだけの熟練度合いがまだ足りていないというところは認めざるをえない。ただ一点、メルケルプーチンを評して「別世界に住んでいる」と述べたことについて著者が、われわれも近いうちにその別世界の住人になるかもしれないと言っている部分は、ちょうどアメリカ大統領選挙の結果が出た頃に読んだこともあり、大局観としてはまともな方向を指し示してるんでは、と思わないでもなかった。あなたが住んでる世界は、どっちだ。

*1:一応著者を擁護しておけば、そもそも英語の原題には「ユーラシアニズム」の語は入っていないので、ユーラシアニズムという一本の線に沿って話が進まないからといって責めるのはお門違いなのかもしれない。著者は歴史家でも思想家でもなくジャーナリストだし、おそらく本当に書きたかったのは現代ロシアの政治をめぐる第3部で、1部と2部はそこにつなぐための前置きのつもりだっただろう。ユーラシア主義という思想がなんなのか知りたい人が最初に読むものとしては本書ではなくてこちらをすすめたい。  

ユーラシア主義とは何か

ユーラシア主義とは何か

 

 とはいえ、これはすでに名前を出した言語学者トルベツコイと地理学者サヴィツキーに焦点が当てられたもので、『ユーラシアニズム』でいくと第1部、全体の5分の1ほどで扱われているテーマを扱う学術書なので、ちょっと方向性が異なる。

*2:この「影響力」というものが、実態を実証的に把握しづらいいかにもめんどくさいものではある。でも日本に置き換えてみるとたとえば、司馬遼太郎の創作を史実と厳密に区別しないいわゆる「司馬史観」みたいなものに基づいて、竜馬大好きエグゼクティブが自己流経営思想を開陳するなんてのは実にありそうな話だし(『竜馬が行く』はおもしろいですけど!)、もっと害悪のあるところでいうと、「江戸しぐさ」みたいな、完全な創作物がまるで史実であったかのごとく公的な教育の現場に浸透しちゃったことなんかも考え合わせると、あまりひとごととは言えない。学問と非学問のすき間に生えるカビみたいな(失礼?)思想にどう対処したらいいのかって、けっこうむずかしい。こういうのって学術的な論証が効果を発揮する磁場からはずれた場所で勢力を拡大するからだ。クローヴァーは、ウイルスのように人に寄生して広がっていく真実より真実らしい思念を、進化生物学者ドーキンスにならって「ミーム」と呼ぶ。ねぇミーム、こっち向いて。