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『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』書評①

昨年12月、講談社選書メチエより乗松亨平『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』という本が出ました。出たよね?

 

ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン (講談社選書メチエ)

ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン (講談社選書メチエ)

 

 

日ごろからソ連や現代ロシアの文化に興味をもつ者として、ホイきたとばかりにすぐさま購入し、おもしろく読んでいたところ、ひょんなことからこの本の書評を立て続けに2つも書くことになりました。なにがどう「ひょん」なのかはくわしく訊かないでおいてほしいのですが、せっかく書いたことだし、誰が読むのかわからない当ブログにも一応放流しておくことにします。ネットの広大な海を泳ぎ回って、いつかでかい鮭になって帰ってくるかもしれない。

 

1つ目は『篝火』という同人誌に寄稿したものです(転載の許可はもらった)。基本的には翻訳詩&創作詩がメインの冊子なんだけど、ぼくは詩はからっきしなので書評という形で参加しました。2月に出たこの第4号、紙媒体は発行部数が少ないので手に入れづらいかもしれませんが、いずれはKindle化される予定らしい。ちなみに、なんと1~3号にいたってはすでにされているという有り様なので、気になる方はチェックしてみてはいかがかな。

 

 

はい、では以下がその書評です。書評というものを書き慣れないせいで、対象書籍の内容を過不足なく紹介せねばという義務感を勝手にしょいこみ、また書いてみると2000字という縛りが案外きつかったということもあって、評というより単なる要約になってしまっている気もしますけど、ま、いいじゃない?

 

【以下書評本文】

本書で論じられるのは20世紀ロシア/ソ連の思想哲学における「他者」の問題であり、ロシア/ソ連文化論という文脈にあって「他者」を語ることは、政治や宗教における「全体主義」的構造、すなわち「他者」不在の世界について語ることと切り離しがたいネガ・ポジの関係を取り結んでいる。ロシアにおける「他者」と「全体主義」のこうした複雑な絡み合いを、現代の思想家たちの見解を紹介しながら掘り下げていくという点で本書は、桑野隆『バフチン全体主義』や貝澤哉『引き裂かれた祝祭』の後継と見なすべき著作だが、桑野・貝澤の論の比重が20世紀前半のバフチンの文学論やロシア・アヴァンギャルドの芸術などの批判的見直しに割かれたのに対し、本書で分析の対象となるのは、モスクワ・タルトゥ学派の領袖Y・ロトマンの文化記号論を皮切りに、ロトマンとほぼ同世代の実存主義系哲学者M・ママルダシビリの記号論批判、ママルダシビリの弟子筋にあたるV・ポドロガやM・ルイクリン、M・ヤンポリスキーらの「余白の哲学」、さらにはソッツ・アート、コンセプチュアリズムといった現代アート等々、「雪どけ」期の終焉1968年以降の文化潮流である。

 

本書冒頭の主要人物リストには現代ロシアの枢要な哲学者・批評家・芸術家の名前が20も挙げられていて、彼らの多様な思想を串刺しにして論じる方策として著者はまず、それらの思想の背後に「私はXにとって他者である」という命題がいわゆる「大きな物語」として潜んでいるという仮説を提示する。これによって、自己をなにかの「他者」と定位することによってはじめて自己が自己たりえるというロシア独特のねじれた主体性の歴史をあぶりだそうとするのである。

 

分析が進むにつれあらわになっていくのは、ポストモダン思想の内部ではとうの昔に融解したかに思われた「権力/大衆」、社会規範の「内/外」といった二元性を克服できない、というよりむしろ積極的に保存しようとするロシアの知識人の姿だ。もちろん、権力という「X」に対して大衆や芸術家が十全な「他者」であったことなどかつて一度もなく、実は彼らこそが権力を下支えし補完してきたのだというA・ユルチャクやB・グロイスの見解は本書においてもつねに念頭に置かれる。しかし本書の見どころは、そうした皮肉な事実が暴かれてなお権力から離れた自律的な「主体」の確立をあきらめない思想家たちのあの手この手の工夫にある。「雪どけ」の時期を境にそれまでの純理論的な学究活動から、記号論をロシア文化の実地の分析に適用するスタイルへと転回したロトマンは、19世紀のプーシキンやデカブリストたちが、文学や社交界の規範や建前を真っ向から否定するのではなくむしろそれらを「遊戯」的に、「演劇」的に、次々と使い分けることで、逆にそうした規範によっては汲みつくされない生身の「主体」を能動的に浮かびあがらせていったと論じ、のちに「生の構築」と呼ばれることになる思想を創出した。対してママルダシビリは、記号論を素地とする「生の構築」論に、思考を言語やその他の記号体系の中に閉じ込めようとする全体主義的な匂いをかぎとり、思考の「生きた運動」を称揚する。

 

続く世代の思想家たちは、記号システムの全体主義的性格を認識するかたわら、言語で思考しえないシステムの「外部」を素朴に実体化(自然化)してしまうという陥穽にもはまらないよう注意を払い、ロトマンやママルダシビリが「爆発」や「運動」という動きの比喩でヒントを示した、権力の内にも外にも固定されない唯一可能な「他者」性を獲得するためさらに知恵を尽くす。ポドロガがドストエフスキーの小説に、ヤンポリスキーが映画のフィルムの内部に見出す非言語的「身体」、抵抗ではなく不服従によって社会規範をハックするO・アロンソンの「ボヘミアン的共同性」などがそうしたアイデアの例として挙げられている。権力との共犯関係が避けがたいことを自覚したうえで、「積極的な自由」と「消極的な自由」のあわいに不安定に見え隠れする第3の道を選び取り、責任ある「主体」をなんとか救い出そうとする姿に、かつてデリダが「脱構築は正義である」と語ったときの「正義」の部分、ポストモダンの思想が持つ倫理的な側面が色濃く浮き出ているのがロシアらしさと言えるだろうか。

 

こうして権力に取り込まれきらない残余を微かにでもつかもうとする知的な営みには、全体主義の圧力を克服すべく格闘を続けてきたロシアの知識人たちの矜持がひしひしと感じられる。だがその一方で、権力に疎外された「外部」、反抗する「他者」としての自己の存在を無邪気に信奉してしまうとき、そのみずからにとっての「他者」に対する想像力はおのずと欠落する。ウクライナ危機でロシアが見せたふるまいは、自己を欧米の規範の純粋な「外部」と措定する「他者」の思想が極限まで先鋭化した末の出来事であったと見なすこともできる。

 

本書で著者は、自己を規定するために必ず敵を必要とする「私はXの他者である」という、ロシアのアイデンティティの根幹に関わる物語の危うい魅力を批判的に考察した。そしてそのうえで、その批判の矛先を日本にも向けることを控えめにではあるが読者に要請しているように映る。本書は柄谷行人浅田彰東浩紀椹木野衣などの日本の批評家たちの論を折にふれ参照することで、一種の比較文化論としても読めるようになっており、ロシアと同じく、西欧に一歩遅れて近代化を成し遂げたがゆえの歪みをときに露呈する日本の現状を省みるための有効な手段として、ロシア文化論を提示しようという野心が伝わってくる。現在の日本にはロシアで日々育まれる思想を輸入し「鑑」として仰ごうとする人間は少ないかもしれない。しかしひょっとするといま我々に必要なのは「鏡」としての役割を担う思想であり、ロシアという国はそのもっとも適当な供給源たりうるのではないか、本書を読むとそう思えてならない。

【書評ここまで】

 

1つ目は以上。この本を読んでの素直な感想としては、比較的好き放題書いた2つ目の書評を読んでいただくほうがよいかと思います。いやまあもちろん、書評なんかすっとばしてこの本自体を読んでくださればそれに越したことはないのですが。