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『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』書評②

『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』書評2つ目(1つ目はこちら)。

 

ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン (講談社選書メチエ)

ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン (講談社選書メチエ)

 

 

2つ目のこれについては掲載書誌名は(なんとなく)伏せますが、商業誌ってわけじゃないし、いずれネット上で全文公開されるらしいし、まあOKだろうと判断して転載します。OK!!!

 

【以下書評本文】

ヨーロッパ、とりわけフランスから輸入されたポスト構造主義の難解な哲学が一大ブームを巻き起こしたのも今は昔、「現代思想」や「ポストモダン」といった言葉がどこかしら古めかしさを帯びてしまっている現状は否めない。そんな今になって、日本と同様、西欧の先進的な思想哲学を吸収する側にあったロシアにおけるポストモダン思想の諸成果を整理し紹介することにどれほどの意義があるのか、いぶかしむ向きもあるだろう。しかしここで評者は、本書こそが「現代思想」の枠組みの中で今可能な、最先端の試みのひとつであると主張してみたいのだ。 

 

とはいえ、そうした主張を展開するにあたっては、本書がその論の奇抜さで目を引こうという類の本ではないということはことわっておかねばならない。著者は主に「雪どけ」期終焉の年と目される1968年以降に活躍した、20にものぼる思想家たちの著作を丹念に読みこみ、それらの背後に共通して潜むロシアにとっての「大きな物語」、すなわち「わたしはXにとって他者である」というテーゼを導出する。これは、かの国の政治や文化を日ごろから観察してきた人間にとっては、これまで抱いてきた素朴な実感を裏打ちしてくれたかのような、非常にすんなりと受け入れられるアイデアである。ためしに「X」に「権力」を代入してみよう。すると20世紀、ソヴィエト政権下の全体主義的な圧力に「他者」として立ち向かい、当時の西側諸国でも大きな支持を集めたソ連の知識人たちの姿が浮かび上がってくる。本書でもっとも大きな紙幅を割いて論じられる記号学者ユーリー・ロトマンや、彼と世代の近い哲学者メラブ・ママルダシビリなどにしても、たとえば同時代にソルジェニーツィンがそうしたように政治的な闘争の表舞台に立ったわけではないものの、「他者」不在の全体主義的機構としての性格を強く持っていたソヴィエト社会にあって、そこに組み込まれきらない自由で能動的な主体を構築すべく、各々の領野で思索を重ねた様子がうかがえる。そしてこうした姿勢は彼らの下の世代、西欧のポストモダン思想をより積極的にロシアの文脈に移し替え、それぞれに独自の理論を築いた思想家たちに受け継がれていったのである。

 

ただし評者が本書の試みを先端的とみなすのは、ロシアの思想家たちが西欧の思想を参照しつつ、欧米のリベラルな価値観から見て歓迎される知識人像に回収されていく様子が描かれるからではもちろんない。話はむしろその逆、ロシア社会において、「わたしは権力にとって他者である」という物語が、「わたしは西側にとって他者である」という物語へとシームレスに遷移していくときの理路が、家父長制や植民地主義といった旧弊なイデオロギーに則った世界観の不安定さ、不正義を暴露してきたポストモダン思想そのものがはらむ両義性をえぐりだしているように評者の目には映ったからなのだ。

 

そもそも著者が本書を説き起こすにあたって注目したのが、選挙不正に端を発する2011年モスクワでのデモ(権力に対する「他者」性の発露)と、2014年のウクライナ危機(欧米諸国に対する「他者」性の発露)であった。自国の強権政治を糾弾する民主的な運動と、世界の境界線を実際の流血を伴って文字通り揺るがしたウクライナ侵攻を、同じ「他者」の思想の反映として語ろうというのは、議論としてやや大味にすぎるかもしれない。しかし、自己を包摂し飼いならそうとしてくる上位秩序に対する反抗の精神、まつろわぬ「他者」であろうとする姿勢が、西欧由来の民主主義制度を希求しかつ反欧米的な風潮を形作っていくのが現代ロシアの動かしがたい現実なのだとすれば、すくなくとも人文学の視座から行うべきは、それを西欧的価値観に照らして採点し裁断することではない。仮にロシアでのポストモダン思想の受容が、その原義を十分に汲みつくさない「誤読」であり、「脱構築というより二項対立の再導入へとしばしば向かう」(37頁)反動的な性格を持つものだとしても、思想の流れを屈曲させる強烈な磁場がいったいどんな性質を帯びたものなのか、目に見える歪みから間接的に理解することが必要となる。

 

この「他者」の物語の横滑りとでも呼ぶべき現象については、本書中でいくつも報告されている。ロトマンが初期の純理論的な学究活動から徐々にロシア文化の記号論的分析へと活動の領域を移し、「生の構築」と呼ばれる主体性の理論を形成したのち、20世紀初頭に亡命右派知識人の間で発生したユーラシア主義にも似た、民族的・文化的多様性を包含するロシアという国の優越を説く帝国主義的な「記号圏」のアイデアに傾倒していったことや、ミハイル・エプシテインが、西欧文化の後追いによって形作られたロシアの文化は、その実体のないシミュラークル性によって西欧に先んじて「ポストモダン」的であったと主張する際の、ロシアの特殊性を強調するポストモダン理解などがそうである。ここでは抽象的な「他者」の思想がロシアという存在によって具体性を獲得し、ナショナリスティックな色調を付け加えられている。

 

こうして見てみると、現代ロシアの主要なイデオロギーのひとつと考えられるネオ・ユーラシア主義などもまた、本書で説かれる20世紀後半のロシア思想史の流れと関連付けて考えられるのではないかと思えてくる。本書に言及はないが、1950年代から地下で活動を開始し、現代ロシアを代表する作家・思想家に多大な影響を与えた重要人物にユーリー・マムレーエフがいる。1960年代の彼は、当時の社会の全体主義的な風潮に疑義を呈し、インド哲学を下敷きに「中心」ではなく「周縁」を、「普遍」ではなく「特殊」を志向し個人の価値を謳いあげる実存主義風の哲学を練り上げた。1931年生まれのマムレーエフの手によって、本書が語る思想史の裏側、モスクワのアパートの一室でひそかに胚胎した、「周縁」から「中心」を飲み込もうという思想は、やがて現代のアレクサンドル・ドゥーギンらウルトラ・ナショナリストへと引き継がれ、西欧的近代に対する逆襲の理念として結実することとなる。ここでもまた、否定性、批判精神の別名である「他者」の概念が、ロシアという個別の場所によって受肉する様が見て取れる。

 

このように「他者」性がロシアという特定の場所に固定されてしまうことを著者が危惧するとき、対抗する案のひとつとして提示する興味深い例に、オレグ・アロンソンの「ボヘミアン的共同性」がある。権力への「抵抗」ではなく「不服従」を説き、なにもしないこと、「無為」であることに積極的な意味を見出すこの思想自体は、流動性、遊戯性を旨とするポストモダン思想の理解として正統と思われ、また「徒食」が社会に対する反抗の一形態として実際に機能していたロシアの伝統を受け継いでもいる点で、ロシア的ポストモダン思想が醸す妙味といってよく、現代の日本にも適応可能な強度を持つ思想だろう。しかし実は、権力と真正面から切り結ぶのではなく、上からの圧力を社会の片隅ではぐらかし続けるマムレーエフのような人物たちの「ボヘミアン」的性格が、すでに批評家ゲニスとワイリによって指摘されていた(なるほどマムレーエフの小説には、登場人物たちがモスクワの郊外でただ酒を飲んでしゃべったり地面に寝そべったりと、まさしく「無為に」過ごすシーンがよく出てくる)のであり、そうしたふるまいの一帰結が「他者=周縁」としてのロシアを聖化し祭り上げる国粋主義的な思想であることを目にしてしまったわれわれとしては、アロンソンの理論にも諸手を挙げての賛同はしづらくなってくる。ここへきて、ロシアにおけるポストモダン思想とナショナリズムの関係は、一筋縄ではいかない混みいった様相を呈してくるのである。

 

スラヴォイ・ジジェクは2007年のある論考で、イスラエル国防軍ジル・ドゥルーズ千のプラトー』を軍事教練に応用しているというエピソードを紹介する。ここでは人文学は役に立たないどころでなく、むしろ発案者の意図を大幅に超えて過剰に役立ってしまっているのだが、ジジェクによれば、ある理論はそれが創出された当初の文脈からひきはがされ移植されるのを耐え抜いてはじめて普遍性を獲得するのであった。ここで話をイスラエル軍にとってのドゥルーズから、ロシアにとってのポストモダン思想へと大胆にずらしてしまうことは許されるだろうか。つまり、ポストモダン思想がロシア的文脈に移し替えられ「国産化」した末に、欧米中心の世界秩序の現前性に大きな疑問符を投げかけるための力となった今こそ、ポストモダン思想が普遍性を獲得したことを認めてもよいのではないか、という問いを発することが、である。

 

もちろんこれは皮肉であり、同時に思慮の浅い「逆張り」でもあるかもしれない。しかし、ポストモダン思想が始めからこのような帰結へと至る道〈も〉用意していたのではないかと疑ってみることは重要である。ポストモダン的発想の世界的な浸透が「大きな物語」の亡霊を招来するというのはたしかに矛盾であるが、この明らかな矛盾に矛盾として向き合うことを本書は要請している。自己を「他者」と規定するロシアという否定性を、どこまで織り込んで世界は思考していけるのだろうか。

【書評ここまで。以下補足】

 

『篝火』のほうの原稿を書き終え、ほっとして正月気分でお茶を飲んでいたところに、いきなり予想だにしない方向から書評書かへんか?ときたので驚いて、しかしこれこれこういうアレでもう書いちゃったんですけどと答えると、ほんならまったくべつの内容で書かんかいと言われた。これが同じ本の書評をひと りで2つも書くという事のざっくりした顛末になるでしょうか。そういったわけでこちらは書評①との内容の重複を避けるため、本書の要約紹介というよりは、 ぼく自身の問題意識を前面に押し出したレポートみたいになってます(しかしまあ、4000字書いていいとなるとずいぶん違う)。

 

問題意識。

 

ぼくがこの本を読んでいる間中ずっと考えていたのは、日本の人文学が「先進国」からの知識の輸入で成り立つモデルっていったいいつまで続くんだろう?という ことでした。昨今「多様性」などという言葉はどんな口からも飛び出るようになりましたが、そうはいってもそれ自体は欧米発信の、欧米で大事にされている思考のモデルとしての「多様性」ということであって、すくなくとも人文学の分野は、結局のところ米英仏独あたりから渡来する、明治期から100年以上たってもあまり多様化したようには見えない「先端」的な知識の引き写しで成り立っているという事実に大きな変化があるようには見えない。

 

その点から見ると、ロシアという国の立ち位置はたいへん微妙ですね。たしかに明治以降の日本の学術体系のなかでは、いちおう学ぶべき主要数か国のうちに数え られ、大学のカリキュラムなんかでも、たとえば第2外国語としてロシア語がそこそこ(あくまでもそこそこ)メジャーな選択肢であり続けていたりもするので すが、そうはいってもロシアは日本と同じくヨーロッパの「先進」文化の影をずっと追い続けてきたみたいなところがあるし、共産主義ユートピアの夢もソ連と 一緒に崩壊して早や20年以上の今となっては、かろうじてドストエフスキートルストイあたりが教養の砦として苔むしたその姿をとどめているくらいで、かの国を知的「先進国」として、知の「鑑」として仰ごうという勢力はすっかり鳴りを潜めているといった印象を個人的には受ける。

 

そして現在ではネットを中心として、ロシアはなにもかもしっちゃかめっちゃかでカオスな国という扱いで、ロシアの文化に好意的な人でもそれをせいぜい共産趣味・ミリタリーなどサブカルの一分野に切り詰めて、毒にも薬にもならない鑑賞物、悪くいってしまえば「イジリ」の対象としてのみ楽しんでいるような雰囲気もあるのではないかという気がしないでもない。

 

それではさて、そんな「最先端」から転げ落ちたかに見えるロシア文化を税込1836円も出してマジで学ぶことで、まことの「多様性」への扉は我々の前にひらかれるのか?

 

ひらかれる、とぼくは思う。本書を読むと、ロシアの思想・文化を学ぶことは単なる無害な趣味の次元にとどまるものではない、ある意味では危険な、いわゆるひとつの「アクチュアリティ」(!)をもった営みなのだということがよくわかってくる。ここには海外の事物をすぐれたお手本として恭しく押しいただくというのでも、珍奇な見せ物として消費するというのでもない海外文化受容の可能性がある。ロシアを「鑑」ではなく「鏡」として見ることで日本の現状をよりよく見 通すことができるのみならず、知識の「輸入/輸出」「先進/後進」という図式自体が揺るがされるんじゃないか。

 

言い換えれば、なぜ日本では毎年のように「ドイツ観念論」やら「フランス現代思想」やらの入門書は大量(ってほどでもないかもだけど)に出るのに、「ロシア現代思想」「韓国経験論」「ベトナム哲学」は学ばれないのか?そんなことをぼくは考えてこの本を読んだんだということになるでしょうか。いや、べつにぼくだって、前者が好きで読んではいるわけなんだけども。

 

正直この本は、200ページそこそこの分量にかなりの情報量が詰め込まれているので、ところどころ議論が荒い部分があるとは思う。思うのですが、この本はあくまでも地域研究が持つ普遍性をうったえるために(あるいは「普遍」が 持つどうしようもない「特殊」性を問い直すために)放たれた鏑矢であって、問題はここからなにを受け取り、どう後ろに続くかなのだろう。そうした思考の触媒として本書はロシアに興味がある人のみならず、人文学の分野全般に興味のある人が手に取るべき本だと思います。

 

そういった意味でぼくは本書を勝手にロシア思想版『構造と力』とか呼んでいる。ほんと勝手だなあ。