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アナーキーに生きなきゃ

自分がこんなに困っているのは、内務省がムダに発禁処分をだすからだ。内務省がわるい、カネがほしい。だったら、内務大臣からカネをもらえばいい。1916年10月30日、大杉は、ふところにナイフをしのばせて、内務大臣の後藤新平を訪問した。官邸にいってみると、いがいにもふつうに会えた。後藤に会うなり、大杉はこう切り出した。カネをください。後藤が理由を尋ねると、大杉は、雑誌や本が発禁になって、売ることもできないからだといった。ほんとうのことだ。後藤は納得して、カネをくれた。300円、大金である。(栗原康『大杉栄伝 永遠のアナキズム』p134)

 

仲間内で刷る新聞刷る雑誌、かたっぱしから発禁にされ警察に没収され、いよいよ困ったアナーキスト大杉栄、大正5年のエピソード。会えるのかよ!おおらかな時代もあったものだ。ナイフ持って凸られてるのに、金を融通するほうもするほうだと思う。

 

大杉栄伝: 永遠のアナキズム

大杉栄伝: 永遠のアナキズム

 

 

以前読んだエッセイ集『はたらかないで、たらふく食べたい』がおもしろかったので、同じ著者のものをもう1冊。これじゃあまるでファンみたいじゃないか。著者の人となりはどうだか知らない、微妙なところ、だが書くものがおもしろいのでしかたない。おそらくはこれが著者の専門ど真ん中、今のところの主著と言っていいのだろう。読んでから知ったが、巷ではけっこう評判らしい。

 

栗原さんの文章が普通の学術書と違っておもしろいのは、大杉をはじめとする登場人物の気持ち、主観、内的独白を、歴史的事実の記述の合間にためらいなくばんばん書き込んでしまうところだ。「内務省がわるい、カネがほしい」「恥ずかしい」「殴るしかない」。憑依型とでもいうのだろうか。あとがきで、大学時代の指導教官に「このひとはわたしの弟子ではありません」と言われたと書いているが、たしかに、こういうスタイルが染みついちゃってるような人は、まあ、論文までこの調子ではないとしても、学術的な厳密さを求められる世界での覚えは悪いかもしれない。でもぼくは好きよ、おもしろいから。

 

具体的にですか?たとえば、当時流行りの「テーラー主義」に対する大杉と権田保之助の態度の相違についての解説なんかは、ぼくのそもそもの個人的な関心と共鳴して、ふむふむなるほどと思って読んだ(このへんは『すばらしい新世界』とか『華氏451度』なんかとも響きあう問題圏だ)。ただ、評伝という形式のせいもあるのだろうが、そして著者の文体に依るところもあるのだろうが、大杉の思想について詳細に読み解く、深く掘り下げていくという感じはしない。なんなら著者の定まったひとつの主張が、ぐるぐると繰り返されている感すらある。プラグマティズムがどうしたとかベルクソンニーチェがどうしたとか、大杉が自身の思想を構築するにあたって依拠した哲学思想についての解説も、けっこうざっくり、大まかなものにとどまっている。アナーキズムという思想をもっと学問的にびしっと考究したいのであれば、ここを出発点に大杉本人の書いたもの含めほかの本にあとであたる必要がありそうだ。

 

この本のウリはそういう(大切ながら)こまごました話ではなく、天衣無縫の一人生が機関車よろしくハツラツと驀進していくさまをそこに乗り組んで追体験できるような、読み物としてのおもしろさだと思う。もちろん、こちらとしては1923年の悲劇を知りながら読んでいるので、大杉の一挙手一投足がどことなく悲劇的な色合いを帯びて見えないということはない。だけどそれにしては著者の書きぶりは、ときに不必要なまでに軽く、ひょうひょうとしている。好きな思想家に入れあげるあまり目に涙を浮かべながら書いている感じというか、俗情と結託しちゃってるようなところが本書にはなく、いかにもカラッとしている。それに冒頭で紹介したエピソードもそうだが基本的に大杉のやってることが、そりゃ権力側も怒るだろというくらいにはめちゃくちゃなので、悲壮感ってあんまりない。プライベートでも自由恋愛を標榜して女性に手を出しまくり、そのせいで刺されて死にかけているような人である。大杉栄についてほかで読んだことがないからわからないけど、官憲に殺された悲劇の活動家の伝記でこんなに笑えるということはそうないのではないか(みながみなこう書かれたらまずかろうとは思います)。

 

にしても大杉、すごい。東京外国語学校のフランス語科に入ってからは「一犯一語」(つかまって牢屋にぶちこまれるたびに1つ言語を身につけようというもの。気合が違う)をモットーに語学を学びまくり、「10か国語で吃る」(大杉は重度の吃音だった。「健全」な、「スムーズ」な社会からのはみ出し者としての「どもり」)を自称するまでになった語学好きの大杉は、官憲に目をつけられながらも日本を世界をひょいひょいと飛び回り、アナーキズムを生きていく。これくらいしてくれればこっちとしても安心してグローバルと呼べるというものである。自由!GのYou!

 

しかしまあ、ほんとにすごいのはスケールの壮大さではないのかもしれない。国境を飛び越えたからえらいわけでも、10か国語しゃべったからえらいのでもなく、単純に大杉のまつろわぬ心がえらい。東京にひとり閉じこもり暮らしているぼくのようないじけた人間にしてみれば、いまや自転車1台停めるにも襲いくるさまざまな障壁を乗り越えなくてはならない、清潔で秩序立った箱庭に成り果てた狭き大都市TOKYOでですら、たった100年前にですよ、こんな奔放な生が営んだ人間がいたということ、町のそこここに数々の無秩序の穴をぽこぽことあけまくり、切った張ったのどたばた騒ぎを日々巻き起こしていたということ、これは文字通りに感動的な事実だった。著者はあるインタビューで「明日、東京はありません。」なる名言を吐いているが、それこそ大杉が望んだことかもしれない。チャリくらい停めさせろ!もはやこれは大杉とは関係ない!!!単なる私怨だ!!!!

 

余談というかちなみにというか、大杉栄が学んで自身の活動に活かしたパースやらジェイムズやらのプラグマティズムの思想を、ハーバード大学であのクワインに学んで日本にきちんとした形で紹介し、その後はアメリカ仕込みのガチの分析哲学者にもなれたであろうにその道を捨てて市民運動に身を投じたのが、大杉が金の無心に押しかけた後藤新平の孫、鶴見俊輔である。因果の糸はもつれ、結ばれ。

 

アメリカ哲学 (講談社学術文庫)

アメリカ哲学 (講談社学術文庫)

 

 

鶴見曰く、大杉が「パースやジェイムズについてまとはずれの解釈をしていることは今さら問題にされなくてもよい」。大杉がそこに見て取った倫理が重要である。ここで言う「倫理」とは、ときにわれわれの日常的な「道徳」に真正面から歯向かうような、激烈な性格を帯びる類のものだ。そして鶴見もまた、ハーバードでめくるページのむこうにそうした「倫理」を見てとり、日本の狭い講壇哲学の閉鎖空間を内側から蹴破ったのだった。ただの哲学には興味ありません。

 

大杉栄伝』を読んで思ったのは、人文学だって、そういつも泣きそうな顔ばかりしていなくても、これくらい大げさすぎて笑っちゃうことをぶっ放したっていいよね、ということ、あと、東京はやっぱ自転車にぜんぜんやさしくないよねということ、です。