正代さん

Facebook上でなぜか元剣道日本代表の正代賢司氏が「知り合いかも」欄に表示されたので覗いてみたところ、彼が普通に働き結婚をし剣道もしていることが知れて感慨に耽る。彼が愚かだったことは疑いようもないが、いや、まぁ愚かっていうか逮捕されてるんだけど、しかしそれでも間違いなく彼はあるとき僕の、おそらく唯一と言っていいヒーローだった。一時期は繰り返し繰り返し、彼の試合姿をYoutubeで見続けていたことを思い返す。

 

少し前、とある剣道の雑誌に掲載されていた弟の正博氏のインタビュー記事でも賢司氏の名はまったく言及されておらず、本当に剣道界から抹殺されたんだと悲哀をもってそれを読んだ。しかしFacebook上で公開しているところによれば、結婚を機に現役復帰とのことである。正直ちょっと嬉しく思っている自分がおり、その感情に対し複雑な感情を抱いている自分もいる。

 

女子高生に裸の写真を送らせるという罪が、どの程度の回復困難な傷をそれを犯した者の人生に刻むべきなのか、僕には判断がつきかねる。日本中からつまはじきにされるような凶悪な犯罪なのかと言えば違う気もする。が、かといってそんなのどうでもいいから頑張ってとも言えない。

 

なんで僕がこんなに悩まなきゃいけないのか、少しの理不尽がここに存在する。

ヴィクトリヤ・トーカレワ「日本の傘」

作者

ヴィクトリヤ・トーカレワ Токарева, Виктория Самойловна

1937年レニングラード生まれ。レニングラード国立音楽大学卒業後、モスクワで音楽教師として働きつつ執筆を始める。その後入学した全ソ国立映画学校在学中の1964年に短編「嘘のない一日」を発表し作家デビュー。短編以外にテレビや映画のシナリオも手掛け、映画『ミミノ』は1978年モスクワ国際映画祭にて金賞を受賞。

 

確認できたところでは翻訳は以下の2作品。

「ああ、靄がたちこめた」宮沢俊一訳,『現代ソビエト短編集 1960-1970年代』宮沢俊一訳,プログレス出版社, 1974, 278-294頁

「重心」沼野恭子訳,『魔女たちの饗宴 現代ロシア女性作家選』, 沼野恭子訳, 新潮社, 1998, 7-32頁

 

このほか沼野恭子の手になる作品紹介が北海道大学スラブ研究センターのサイトで読める。(http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/literature/tokareva.html)

 

あらすじ

ある日道端で行列を目にした「私」。なにを売っているのかも確認せず並び始めた彼は、前後に並んでいる人たちが上等な皮のコートを着ているのに自分だけがぼろぼろのラチネ織のコートを着ていることを内心情けなく思い、なにを買う行列なのか尋ねてきた後ろの女性が自分と会話してくれないのもそのせいだと思い込む。やがてその行列が日本製の傘を求める人々のものだと分かるが、そのとき「私」はロシア製の傘を差した日本人女性を目にする。なぜ日本の傘ではなくロシアの傘を差しているのかと主人公が訊ねると、日本人女性は日本の傘はロシアの気候に適していないからだと答える。主人公は傘を買うかどうか迷うが、結局は1本購入しその場で広げる。すると彼はとたんに宙に舞いあがりぐんぐん上昇していく。やがて9階建ての建物のてっぺんに辿りついた主人公はそこから先ほどの行列を見下ろす。するとそれは人間が物を買う行列ではなく、物が人間を買う行列へと変貌している。その行列の中に自分の古びたコートを認めた主人公は、アフリカへと向かう渡り鳥の誘いを断って、愛着のあるコートに「買われる」ため地上へと舞い戻っていく。

 

解釈

「日本の傘」は商店に並ぶ人々の行列という典型的なソ連の風景のスケッチから始まる。主人公の男性は、若さを失いつつある自分の人生を悲観し、みすぼらしいコートを着ていることに卑屈な感情をいだく小市民である。彼は「これほど大勢の人間が一度に間違うこともないだろう」というなんとも消極的な理由から、何を買うための列かも分からぬまま行列に並び続ける。

 

ソ連の現実に対する諧謔や壮年男性の煩悶といった憂鬱なテーマを乗せた物語に唐突にひとりの日本人女性が闖入する。ゴーゴリ『外套』においてアカーキー・アカーキエヴィチの横を稲妻のように走り抜ける娼婦のように、この日本人女性は平凡なリアリズムに細かな亀裂を生ぜしめ、現実の向こうの軽やかな幻想へと主人公を呼び招く。

 

 「モード」(消費主義の悪夢が共産圏にも!)ではあるが実用性のない日本製の傘は、トーカレワ作品における「精神の浄化のシンボル、何か肯定的なもののシンボル」(沼野恭子)であるところの「空」へと主人公を連れ去る。しかしここで重要なのは、主人公が不浄な地上世界から空へと消えてしまうのではなく(彼は渡り鳥の誘いに乗ってアフリカに行くこともできた)自らの意思であえて地上へと帰還するという点である。「空」よりは「地上」を(そういえばゴーゴリ狂人日記』の主人公の病みきった精神は最後、空へと駆け上っていくのだった)、あたたかな «дубленка» よりは擦り切れた «ратиновое пальто» を、見知らぬアフリカよりは見慣れたソ連を、要するに「幻想」よりは「現実」を愛し、主体的に選びとった主人公(傘を買うときの彼は最後まで受身であったことを想起せよ)には、豪奢な毛皮外套を追い求めた結果非業の死を遂げたアカーキーのそれとは違った、ささやかな幸せの人生が約束されているのではなかろうか。

初王子

東京に住み始めてウン年、本日はじめて八王子に降り立つ。普段は取り立てて用のない町。まぁ別に今日だって取り立てて用というほどのものもなかった。ただ八王子在住の知人と飲んだというそれだけの話。先日の雪がずいぶんと溶け残っていて、どことなく故郷の風景を思わせる。

 

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 八王子ラーメン380円。物価も故郷を思わせる。

「カフカ―ス」

「私たちの計画は大胆だった。同じ汽車でカフカース沿岸に向かい、その全く人気のない土地で3,4週間過ごそうというものだ。私はそこに土地勘があって、いつだったかソチの近くでしばらく暮らしていたこともあった。まだ若く、孤独だった私は、暗い糸杉の林や冷たい灰色の波打ち際で過ごしたいくつもの秋夜を、生涯忘れぬよう心に刻んだものだった」(イワン・ブーニンカフカ―ス」)

 

ソチで不倫もいいかもね。

 

2月14日、東京、雪

東京の小学生は雪に対して傘で不従順の姿勢を伝える。ぼくは買い物袋を右手にぶらさげ、首を90度空へ傾ける。雪だけを見る。それはつまり何も見ないということでもある。

 

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2月8日、東京、雪

 やわらかい雪を見ると丸めたくなるのは人間がマンモスを追いかけていたころからの性だから、どうしようもない。どうしようも。

 

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ぼくらは孤独

 昼間は晴れていたのに夕方になって急に風が強くなる、変な日曜。「高円寺麦酒工房」。手作りのビールが飲める。飯もうまいし値段も手ごろ。

 

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 飲み友達と3人、いつもと似たような話。

 

ひとしきり飲んでラーメン。高円寺「太陽」

 

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 なんの変哲もないラーメン。なんの変哲もない。

 

帰りの電車、友人に2度彼女を寝取られたという知人と2人、向かいの席で肩を寄せ合うカップルを眺めながら、中学時代の同級生に似ているAV女優の話をする。現実を生きているはずなのに、ラーメンにもエロスにも妙なリアリティを求めてしまうぼくら、ぼくらは孤独である。向かいのカップルもああ見えてそれぞれ案外孤独なのかもしれない。

 

2015.7.21追記:この記事書いた時の僕、どうかしてたんでしょうね。

『銀の匙』と等価交換

アニメ『銀の匙』を毎週楽しみに見ている。ほんと、これだけ優れた娯楽作品をぽんぽん作れる荒川弘という人は大した人だなと思う。漫画のほうも読んでみようかな。

 

ただひとつ『銀の匙』に関しては思うところもあって、それはつまり、『鋼の錬金術師』から引き続きの「等価交換」の法則が本作ではあまりにも堅固、かつ一面的に使用されているのではないかというちょっとした不満である。そもそも荒川弘がこの「等価交換」のアイデアをひねり出したのは彼女の青年期の農業体験によるものだろうから、農業がテーマの『銀の匙』でそれが採用されないわけはないのだが、この「等価交換」が殊「因果応報」「禍福はあざなえる縄のごとし」「人と人、人と自然はお互い支え合って生きている」的な教訓としてのみ現れてくると、いささか退屈を感じないではない。登場人物が全員そのルールに従順な善人ばかりなので、作品世界は完璧な調和を保ったままぐるぐると回り続ける。それは幸福なことだが、どこの無葛藤理論だよとツッコミを入れたくならないでもない。『銀の匙』がどことなくユートピア小説じみて見えるのは、要はそういうことだ。

 

適当な話、いま世の中で頭一つ抜けてヒットするためには作品内の世界を支配する仕組みとの対決(世界政府をぶっ飛ばすとか円環の理を書き換えるとか巨人倒すとか)という構図が必要で、例えば「ループもの」という共通の設定を持つシュタゲとまどマギを比較したとき前者になくて後者にあったのはそれだし、村上春樹がやおら「システム」とか言いだしたのもその流れなんだろう(どっちが先か知らないが)と思う。ウエルベックの『素粒子』とかもそうね。そうなるとこれ別に日本だけの現象というわけでもないのかもしれない。

 

というわけで、『銀の匙』で今後誰かが一度「等価交換」という唯一絶対のルールになんらかの形で異議申し立てをするのかどうか、最終的に調和を取り戻すにしても、ある種のスパイスとして世界に破綻が生じるのか否か、そこはちょこっとだけ注目してみていこうと思っている。別に今のままで十二分に面白い物語だし、あらゆる作品が社会現象にならなきゃいけないわけではもちろんないし、八軒くんと御影ちゃんのいい感じにいい感じな感じは僕的には最高ですけどね。

キリル・コブリン「街角のカフェ」

ロシアの作家キリル・コブリンの短篇「街角のカフェ」(2006)の紹介。いつ書いたのかは忘れた。

 

作者プロフィール

1962年ゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)生まれ。歴史家、エッセイスト、小説家、ジャーナリスト。ゴーリキー大学(現ニジェゴロド国立大学)歴史学部卒。2000年よりラジオ「スヴァボーダ」勤務。プラハ在住。

 

あらすじ

ラジオ局勤務兼作家の主人公は、毎週火曜日の仕事帰りにお気に入りのカフェに立ち寄るのが習慣になっている。火曜日の仕事はとりわけ大変なので、家に帰って読書なり語学の勉強なりをする気力がわかないのである。作家として彼は書き物をもう15年も続けているが、書評で取り上げられたこともなければ文学賞にノミネートされたこともないので、友人がそう言ってくれるほど自分を有名な作家とは思えない。成功にいたらない理由として自分が住んでいる場所(「自分の国と文学の首都」と「文学的追放者の都」のちょうど真ん中 [=チェコ?])や作品のジャンル(短編、感情表現が控えめ、言葉遊びへの傾倒)などを主人公は考えている。しかし、長編小説を物さなくては大きな成功はないことを理解しつつも、最近の長編はどれも我慢ならないものばかりで半分も読み通せないので自分で書く気にならないのである。それでも生まれ故郷の混沌とした状況とは程遠い淡々とした毎日に彼はそれなりに満足している。

 

ある日の新聞で主人公は9.11のテロの3週間前に犯人が彼の住む町に潜伏していたということを知る。その1週間後、彼はカフェの目の前のパキスタン料理屋(アラブ系の人たちが働いている)の奥の部屋にビン・ラディン人工透析を受けながら隠れているという夢を見る。この夢にインスパイアされた彼はついに長編小説(ビン・ラディンがもし本当にカフェと目と鼻の先にあるパキスタン料理屋に潜伏していたら、というテーマ)の執筆に着手する。アイデアは次から次へと湧き出、多くの登場人物と複雑な物語の筋を持ち、トルストイの歴史哲学とキルケゴール実存主義哲学を発展させたような壮大な作品が紡がれていく。

 

ラジオの仕事に携わる中で涵養してきた政治、民族、技術、歴史に関する知識も役に立って驚くほどスムースに作品を書きあげてしまうと、彼はその作品の成功を確信しつつ、最初に着想を得た場であるいつものカフェでそれを読み始める。その最中、主人公がふとパキスタン料理屋のほうを見ると、ウェイトレスがなにやら絡まったコードのようなものをいじっており、悪戦苦闘している彼女を店の奥から現れた男が手助けするのが目に入る。それを終わりまで見届けず再び主人公は自作の読み直しに取り掛かるが、するとそのウェイトレスがいつものリュックサックを背負った見慣れた格好でカフェに入ってくる。その日カフェではヨーロッパ文化センターの職員たちがパーティを開いていたが、主人公以外誰も彼女が入ってきたことに気付かない。ウェイトレスはダンスをしている職員たちの方に近づくと、リュックのポケットをまさぐって携帯電話かリモコンのような装置(先ほどのコードがつながっている)を取り出し、ボタンを押すのだった。

 

解釈

「街角のカフェ」は「秩序」«Порядок» と「混沌」«Хаос» についての物語と言える。序盤、カフェから主人公が眺める風景を描写するシーンで作者はおそらくかなり意図的に、ヨーロッパ映画界の巨匠であるゴダールトリュフォー(以上フランス)、フェリーニやアントニオーニ、また俳優のマストロヤンニ(以上イタリア)といった固有名詞に言及し、文化的で平和なヨーロッパの雰囲気で作品を満たす。作家としての成功を夢見ながらラジオ局員としてうだつのあがらない日々を過ごす主人公も、自国の「混沌」から遠く離れた文化的で「秩序」立った安寧な生活に内心満足を覚えている。ところがあるとき偶然目にした9.11のテロに関する記事をきっかけに彼はそうした現実の裏に潜む「混沌」に目がいくようになる。最初それはもうひとつのありえたかもしれない現実にまつわる空想を喚起する材料でしかないが、しかし最終的に、ビン・ラディンというテロリストに象徴される「混沌」を小説という「秩序」の中で飼いならしているつもりでいた主人公の想像を超える力をもって牙をむく(物語ラストの自爆テロを思わせる描写)。

 

衝撃的な結末に向けて「混沌」が徐々に主人公の生活の「秩序」を侵食していく様は、カフェからふと目に入るパキスタン料理屋、そこで働くアラブ系の民族(客の人種はさらに多様)、ショーレム(ユダヤ)、グルジェフアルメニア・ロシア)、スウェーデンボリスウェーデン)などの神秘家たちの名前、そして主人公の家の近くの「セックス・ショップ」といった猥雑さ、無秩序、非理性を表すモチーフが主人公の目の前にひとつひとつ登場していく作品構造の工夫によって描き出される。ヨーロッパ風のおしゃれなカフェが雑然としたパキスタン料理屋と常に隣り合わせであるように、今世界では「秩序」は常に「混沌」と境を接している。

 

日本ではこうしたストレートな民族間の、もっと言えば「東vs西」的な対立を描いた作品に出会うことは少ないが、たとえばロシアのペレーヴィン『ジェネレーションP』『数』やフランスのウエルベック『プラットフォーム』を見れば、イスラム圏の他民族の「脅威」に日常的に向き合う国の人びとにとってこうしたテーマがどういった重みを持つのか想像できるだろう。本作はコブリンがプラハ在住であるという事実を下敷きにして書かれたと考えられるが、アジア的「混沌」の象徴であるロシアとヨーロッパ的「秩序」の象徴であるフランスの「ちょうど真ん中」とだけ言われる作品の舞台は、「混沌」と「秩序」が等量に交じり合い、危ういところでバランスを保っている現在の世界全体を象徴する空想上のトポスであるという見方もできるかもしれない。

 

「事実は小説より奇なり」という諺を小説で具現化した「街角のカフェ」は、ルイス・キャロルボルヘスのファンタジー創造の手口をあざ笑うかのようでもある。つまり本作では作家の空想が現実に形をとるのではなく、現実が作家の空想を覆い、食い尽くす。イスラムを始めとする非ヨーロッパ圏の人種・文化に対する一面的な見方は受け入れがたい部分もあるが、それでも手法・テーマ的に見るべきものが多い。

 

古本屋に全弾発射

昼飯。西荻窪「パパパパパイン」にてパイナップルラーメン(塩)。

 

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スープにパイナップルジュースが投入してあるという、どう考えてもキワモノの類だが、これはこういうものとしてそれなりに。

 

それから古本屋をまわる。盛林堂にわとり文庫、モンガ堂、TIMELESS、音羽館西荻窪にはやたらと古本屋が多い。かつてこの町になにがあったのだろう。

 

西荻窪から吉祥寺まで一駅分歩く。途中で吉祥女子中学・高校の女子生徒たちとすれ違う。年始から学校ですか!!!お兄さんとお茶!!お茶しませんか!!!!お茶摘みしませんか!!!!!!!!!!!!

 

吉祥寺でよみた屋、ブックオフブックオフでは今日まで全品20%OFF、その上1月いっぱい使える20%OFFクーポンをくれるというセールを行っていたわけであるが、ラノベ売り場に中学時代に友人に借りて2巻まで読んだ橋本紡リバーズ・エンド』が全巻あったので、追憶が敷く舗道に沿って私は歩んだ。6冊で504円だから、まぁ許されるだろう。登場人物の1人がビートルズの「Black bird」を歌うシーンがあったことを鮮明に覚えている。あの当時は非常に感動したものだったが、しかしなぜ続きを読まなかったのか。すべては曖昧である。

 

ラノベと言えば、先日5,6年ぶりに1冊読んだ。

 

東雲侑子は短編小説をあいしている (ファミ通文庫)

東雲侑子は短編小説をあいしている (ファミ通文庫)

 

 

部活動を回避するために消去法で図書委員になった主人公と、同じく図書委員で小説家の同級生が、恋愛小説を書くための調査という名目で疑似的な恋人関係を結ぶという、なんかすごくありがちな感じのやつである。とにかく淡白な物語で、高校生が本当に普通に恋をしているだけ。しかしあんまり先鋭的な設定の作品にはちょっとついていけないところもあるので、私にはこういうべっこう飴みたいな純愛ものがちょうどいい。

 

「三並くんはさ、自分が長編小説の主人公だって、思ってるようなところ、ない?」

 あまりに唐突な内容の問いだったので、今度は俺が首を傾げる番だった。

「主人公……? 自分が……?」

 俺の疑問にも構わず、東雲が続ける。

「あのね、誰しもそういうところがあると思うの。自分は凄く壮大な物語の主人公で、いろんな出来事に遭遇して、いろんな人と出会って、別れて、そうやって物語が展開していくものだって。小説で言えば、凄く分厚い大長編小説みたいに」

 でもね、と東雲はさらに言葉を繋いだ。

「私はそうじゃないと思う。人間ってとってもちっぽけで、小説にしてみればせいぜい原稿用紙50枚とか60枚とかの短編小説みたいな人生しか送れないんじゃないかって」

              (『東雲侑子は短編小説をあいしている』p78)

 

奇抜なキャラと世界設定が織り成す万国びっくりショーとなってしまった近年のラノベに対する反抗としてこういうことを言って、意図的に鶏のささみみたいに淡白な物語を書いているんだとしたらそれはそれで素晴らしいことであると思う。が、そうではない気がする。なにはともあれ2人の恋の行方も気になっちゃうので時間を見つけて続きは読みます。

私は初詣を愛している。きみは?

2013年の大晦日はコミケツアーを敢行する予定だったが、同道する予定だった人間の体調不良でふわふわと不首尾に終わる。それでも夕方の6時くらいから新宿で知人たちと飲み始め、11時30分ごろに店を出て初詣に向かう。

 

西武新宿線に生まれてはじめて乗り、新井薬師駅へ。以前CMで「初詣は、新井薬師へ!」の掛け声を耳にし、「そうか、初詣は新井薬師なんだ」とかたく信じ込んでいた私にとって新井薬師訪問は宿願であった。

 

参拝客の列に並んでいる最中に2014年を迎える。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。太陽を傷つけその傷口から染み出た血を顔に塗りたくったような笑顔を絶やさない1年にしたいです。 

 

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新井薬師は規模としてはそこそこといった感じ、大きすぎも小さすぎもせず、居心地のよい神社であった。外国人の家族連れを見かける。あの子たちの目に日本人のこの奇妙な風習はどう映っただろう。 

 

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 おみくじは凶。「奥歯に物のはさまつたやうな、又胸に一物を秘しているやうな、サツパリしない運勢である」。「はさまつたやうな」じゃないだろ、ひどすぎるだろ、それが神社の言うことかよ。あんまりな言い草なので紙飛行機にして境内の焚火にくべてやろうと思ったら、思いのほかよく飛んで焚火を飛び越えていってしまった。

 

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寒いので、皆で露店の甘酒を飲む。私は初詣の次に甘酒が好きである。なぜならクールジャパンだからである。

 

この時点で次に何をどうするか決めていなかったが、私の提案で乃木神社に向かうことに。なんか知らないが私の両親がその昔そこで式を挙げたらしく、私にとって乃木神社訪問は宿願であった。

 

JR信濃町駅から徒歩で向かう。寒風吹きすさぶなか都心をナイトハイク。この時点で朝の5時半から起きて活動しているという知人Aの体力は限りなく0に近づいている。

 

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 乃木神社は立地の関係か参拝客は少なく、正月の神社としてはひどくひっそりしていた。露店も出ていなかったし、甘酒もとうの昔に配り終わっていた。クールジャパンが泣いておるぞ。 

 

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おみくじは大吉。凶から大吉へという振れ幅が、「青海原にさざなみもなし」の言葉とはうらはらに乱高下の多い1年を予感させる。

 

粛々と詣でたのち、馬の絵が描かれたパネルの前でむりやり午年の知人Bの記念撮影をし、そそくさと退散。

 

ここへきて、こうなったら今日は一晩中初詣をし続けよう、朝が来るまで終わることのないダンスを踊ろうということになって、続いて向かったのは湯島天神。学業を司る湯島への参拝は知を渇望する私にとって宿願であった。何度か行ったことありますけど。 

 

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さすがの混みよう。露店もたーんと出ていて、知人Bはもっくもっくと広島風お好み焼きを食べる。「これって生地の間に具が挟んであるんだ!混ざってないんだ!」って驚いていた。今さらすぎる。

 

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おみくじは小吉。そういうのはいいです。

 

さて次。私としては今回はなるべくこじんまりした神社を巡りたいという希望があったのだが、特に下調べをしていたわけでもなく、取り立てていい案がほかの誰の頭にも浮かばなかったので、満を持さないで地下鉄1本で行ける明治神宮に向かう。知人A、疲労のあまりもはや一言もしゃべらない。 

 

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明治神宮、案の定、激混み。警察まで出動して参拝客の整理にあたっている。知人A、「帰りたい」の一点張り。 

 

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3時半くらいから並んで、参拝できたのは5時を回った頃であった。たぶん日本の正月にもっとも人が集まる場所だと思うので、1時間半待ちならまだマシなほうなのかもしれない。 

 

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おみくじは「かたしとて思ひたゆまばなにごともなることあらじ人のよの中」。明治天皇の松岡修造チックな一面を垣間見た気がした。

 

大行列でひどく時間を食い、そろそろ夜も明けようかという時間になってきたので、原宿駅にて解散。顔面蒼白の知人Aは帰宅し、私と知人Bは新宿に戻ってはなまるうどんで年越しうどん。知人Bはいなり寿司まで食っている。あなたさっきお好み焼き食べてましたよね。

 

うどんを食べ終え、眠気と朝日の入り混じるなかようやく帰宅。こうして、2014年は初詣ファンの私にとっては願ってもない幕開けとなった。いい年になるといいです。

 

明治神宮で果てしない行列に埋没しつつ私はふと、他国でこれだけ大規模な宗教行事が毎年行われる場所ってほかにどんなところがあるだろうと考えてみたのだが、案外思いつかない。もちろんメッカとかエルサレムとかはあるのだが、ではたとえば近隣のアジア諸国なんかだとどうなのだろう。3日間でのべ300万人超の人間が一つ所に集い、並び、凍え、その果てに行うのが金銭の投擲という不合理。これを外国人が見たら、日本人はなんて信心深い民族なんだと思うと思うのだが、どっこいこれを当人たちが「宗教行事」として認識している節があんまりない現状は、なんだかとても不思議である。ずいぶん前に読んだ阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)などを思い返すが、ずいぶん前に読んだのだからいまいちよく思い出せない。

 

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

 

 

 ま、初詣大好き!とか言って神社を4軒もはしごしている私がこの点についてなにをかいわんや、といった感じではある。

ブログ、それは光

「この中に殺人犯がいるかもしれないんだぞ!そんなやつらと一緒に寝られるわけないだろう!俺は別の部屋で寝る!」そう叫んで彼は一人暮らしの部屋を飛び出した。6月の湿っぽい空にかすかに晴れ間がのぞき、彼の脳天めがけて陽光が降り注いだ。翌朝彼は死体となって発見された。

 

ブログを開設したはいいけどとりたててなにも書くことがないので、書くことを見つけ次第小走りで君を迎えに行くよ。