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キリル・コブリン「街角のカフェ」

ロシアの作家キリル・コブリンの短篇「街角のカフェ」(2006)の紹介。いつ書いたのかは忘れた。

 

作者プロフィール

1962年ゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)生まれ。歴史家、エッセイスト、小説家、ジャーナリスト。ゴーリキー大学(現ニジェゴロド国立大学)歴史学部卒。2000年よりラジオ「スヴァボーダ」勤務。プラハ在住。

 

あらすじ

ラジオ局勤務兼作家の主人公は、毎週火曜日の仕事帰りにお気に入りのカフェに立ち寄るのが習慣になっている。火曜日の仕事はとりわけ大変なので、家に帰って読書なり語学の勉強なりをする気力がわかないのである。作家として彼は書き物をもう15年も続けているが、書評で取り上げられたこともなければ文学賞にノミネートされたこともないので、友人がそう言ってくれるほど自分を有名な作家とは思えない。成功にいたらない理由として自分が住んでいる場所(「自分の国と文学の首都」と「文学的追放者の都」のちょうど真ん中 [=チェコ?])や作品のジャンル(短編、感情表現が控えめ、言葉遊びへの傾倒)などを主人公は考えている。しかし、長編小説を物さなくては大きな成功はないことを理解しつつも、最近の長編はどれも我慢ならないものばかりで半分も読み通せないので自分で書く気にならないのである。それでも生まれ故郷の混沌とした状況とは程遠い淡々とした毎日に彼はそれなりに満足している。

 

ある日の新聞で主人公は9.11のテロの3週間前に犯人が彼の住む町に潜伏していたということを知る。その1週間後、彼はカフェの目の前のパキスタン料理屋(アラブ系の人たちが働いている)の奥の部屋にビン・ラディン人工透析を受けながら隠れているという夢を見る。この夢にインスパイアされた彼はついに長編小説(ビン・ラディンがもし本当にカフェと目と鼻の先にあるパキスタン料理屋に潜伏していたら、というテーマ)の執筆に着手する。アイデアは次から次へと湧き出、多くの登場人物と複雑な物語の筋を持ち、トルストイの歴史哲学とキルケゴール実存主義哲学を発展させたような壮大な作品が紡がれていく。

 

ラジオの仕事に携わる中で涵養してきた政治、民族、技術、歴史に関する知識も役に立って驚くほどスムースに作品を書きあげてしまうと、彼はその作品の成功を確信しつつ、最初に着想を得た場であるいつものカフェでそれを読み始める。その最中、主人公がふとパキスタン料理屋のほうを見ると、ウェイトレスがなにやら絡まったコードのようなものをいじっており、悪戦苦闘している彼女を店の奥から現れた男が手助けするのが目に入る。それを終わりまで見届けず再び主人公は自作の読み直しに取り掛かるが、するとそのウェイトレスがいつものリュックサックを背負った見慣れた格好でカフェに入ってくる。その日カフェではヨーロッパ文化センターの職員たちがパーティを開いていたが、主人公以外誰も彼女が入ってきたことに気付かない。ウェイトレスはダンスをしている職員たちの方に近づくと、リュックのポケットをまさぐって携帯電話かリモコンのような装置(先ほどのコードがつながっている)を取り出し、ボタンを押すのだった。

 

解釈

「街角のカフェ」は「秩序」«Порядок» と「混沌」«Хаос» についての物語と言える。序盤、カフェから主人公が眺める風景を描写するシーンで作者はおそらくかなり意図的に、ヨーロッパ映画界の巨匠であるゴダールトリュフォー(以上フランス)、フェリーニやアントニオーニ、また俳優のマストロヤンニ(以上イタリア)といった固有名詞に言及し、文化的で平和なヨーロッパの雰囲気で作品を満たす。作家としての成功を夢見ながらラジオ局員としてうだつのあがらない日々を過ごす主人公も、自国の「混沌」から遠く離れた文化的で「秩序」立った安寧な生活に内心満足を覚えている。ところがあるとき偶然目にした9.11のテロに関する記事をきっかけに彼はそうした現実の裏に潜む「混沌」に目がいくようになる。最初それはもうひとつのありえたかもしれない現実にまつわる空想を喚起する材料でしかないが、しかし最終的に、ビン・ラディンというテロリストに象徴される「混沌」を小説という「秩序」の中で飼いならしているつもりでいた主人公の想像を超える力をもって牙をむく(物語ラストの自爆テロを思わせる描写)。

 

衝撃的な結末に向けて「混沌」が徐々に主人公の生活の「秩序」を侵食していく様は、カフェからふと目に入るパキスタン料理屋、そこで働くアラブ系の民族(客の人種はさらに多様)、ショーレム(ユダヤ)、グルジェフアルメニア・ロシア)、スウェーデンボリスウェーデン)などの神秘家たちの名前、そして主人公の家の近くの「セックス・ショップ」といった猥雑さ、無秩序、非理性を表すモチーフが主人公の目の前にひとつひとつ登場していく作品構造の工夫によって描き出される。ヨーロッパ風のおしゃれなカフェが雑然としたパキスタン料理屋と常に隣り合わせであるように、今世界では「秩序」は常に「混沌」と境を接している。

 

日本ではこうしたストレートな民族間の、もっと言えば「東vs西」的な対立を描いた作品に出会うことは少ないが、たとえばロシアのペレーヴィン『ジェネレーションP』『数』やフランスのウエルベック『プラットフォーム』を見れば、イスラム圏の他民族の「脅威」に日常的に向き合う国の人びとにとってこうしたテーマがどういった重みを持つのか想像できるだろう。本作はコブリンがプラハ在住であるという事実を下敷きにして書かれたと考えられるが、アジア的「混沌」の象徴であるロシアとヨーロッパ的「秩序」の象徴であるフランスの「ちょうど真ん中」とだけ言われる作品の舞台は、「混沌」と「秩序」が等量に交じり合い、危ういところでバランスを保っている現在の世界全体を象徴する空想上のトポスであるという見方もできるかもしれない。

 

「事実は小説より奇なり」という諺を小説で具現化した「街角のカフェ」は、ルイス・キャロルボルヘスのファンタジー創造の手口をあざ笑うかのようでもある。つまり本作では作家の空想が現実に形をとるのではなく、現実が作家の空想を覆い、食い尽くす。イスラムを始めとする非ヨーロッパ圏の人種・文化に対する一面的な見方は受け入れがたい部分もあるが、それでも手法・テーマ的に見るべきものが多い。