『とうもろこしの島』と『みかんの丘』という映画を見ました。
秋っぽ。マジ寒。でも寒いのだ~い好き。チョコあ~んぱん。
10月29日、古本まつりのにぎわいを横目に、神保町の映画館で『とうもろこしの島』と『みかんの丘』を見る。
どちらも監督はグルジア人だが、一口にグルジア映画ともくくりづらい。アブハジアの独立をめぐるグルジアでの内紛を題材としたこれら2作は、『もろこし』が6か国、『みかん』が2か国の合作で、ロシア語やらグルジア語やら数言語が飛び交うきな臭い地帯の物語だ。もっとも、ぼくにグルジア語とアブハズ語の聞き分けなんてできるはずもないので、飛び交っている「らしい」というところだが。
『みかんの丘』のほうが戦争物の人間ドラマとして、少々ベタにおもしろく、人にもすすめやすい気がする。ただぼくとしては『とうもろこしの島』ののほうを深く記憶にとどめたい。PVやパンフレットの宣伝文句には「人間として在るべき姿」を描いたとあったが、それは『みかん』のわかりやすいヒューマニズムには妥当しても『もろこし』のほうにはむずかしいのではないか。『もろこし』のほうの主人公である祖父と孫娘の生き方は、時間や空間の感覚からしてぼくの普段のそれとはかけ離れていて、ラストシーンに至って正直ぼくはある種の不気味さすら感じた(比較的饒舌な『みかん』と寡黙な『もろこし』の対比によって、こうした印象がぼくのなかでより強調されたのかもしれない)。人はこう「あるべき」なのか? こう「あってしまう」だけではないのか? でもこういう不気味さこそが、異文化に触れるときに手に入る最良のものだとぼくは考えている。失礼な物言いだろうか?
2015年は『ピロスマニ』、2016年は『花咲くころ』と、グルジアの映画がその年いちばんのお気に入り(今年まだ終わってないけど)で、このところなんだかひとりで勝手にグルジアづいている。ソ連崩壊直後のグルジアを舞台にした『花咲くころ』でも、アブハジア紛争は物語の背景として作品のトーンを一段暗く押し下げていた。『ピロスマニ』が、グルジアという国の対外的な誇り、もっとも輝かしい部分の表現なのだとすれば、『花咲くころ』や今回の『もろこし』『みかん』というのは、地球が文字通りglobal=球形であるがゆえに、日本に軸足を置いては死角となる遠いむこうの世界の陰が、映画の明かりでほんのり照らし出されたとでもいうか。
ちょっと前にユーゴスラヴィアの崩壊をテーマにしたジュブナイル小説を読んでいた時も感じたことだが、国とか文化とかいうまとまりが、なにか実体として統一的な基盤を持っていて、それはいついつまでも安定して保たれるんだなんて、どうして素朴に信じていられるのかという気分に、こうした作品群に触れているとなってくる。グルジア‐アブハジアの問題に関しては廣瀬陽子『未承認国家と覇権なき世界』などを読み勉強したい。ノーベル賞作家アレクシエーヴィチの『死に魅入られた人びと』第16章では、アブハジア出身のひとりの女性の視点からこの紛争が語られていたりもする。
未承認国家と覇権なき世界 (NHKブックス No.1220)
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それにしても岩波ホール、空いてる。経営する側にとってみりゃ厳しいのだろうけど、前の席の背にあごをのっけながら見るみたいなことができちゃうのは、得難い環境であることは否みがたい。東京で『君の名は。』とか『聲の形』を見ようと思ったら人は、新宿の映画館で満員のホールに整然と、かつぎゅうぎゅうに詰め込まれるみたいな選択肢を取らざるを得ないわけだが、そんなのはどうしたって居心地がわるい。われわれは贈答用の苺ではないのだ。