読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

八つ裂き!恋は自然災害

そりゃまあ順当にいけばそれしかないだろという感じなのだが、 2002年から2005年にかけてジャンプで連載されていたラブコメいちご100%』の作者は当初、主人公と東城綾をくっつける予定だったらしい。しかしみなさまご存知のとおり(ご存知だね?)、最終的に選ばれたのは西野つかさだったのでした。おい!!!

 

作者の意図を超え、物語の流れをねじ曲げたものはなんであるか?それこそ恋の力にほかならない。西野つかさ東城綾にまさっていたのはかわいさではない。単純に意志のエネルギーの総量である。己の恋を、欲望を貫徹せんとする意志の。台風の進路を人力でどうこうすることができないように、作者にすら統御できなかった恋路の行き着く先へと読者が導かれたというその一点においてだけでも、『いちご100%』はラブコメの金字塔と呼ばれる資格がある。*1

 

 唐突におまえはなにを言いだすんだ、定職につけ、とお思いになるかもしれないが、しかしこれがこの本を読みながらぼくが考えていたことなのだからしかたがない。

 

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

 

 

『はたらかないで、たらふく食べたい』から『大杉栄伝』ときて、この著者の本は3冊目。そりゃ文章がうまい人というのは世の中にたくさんいるが、この文体は、そうない。崇敬するアナーキストに憑かれたかのように繰り出されるパンチライン満載の文章は非常に中毒性が高く、そして『大杉栄伝』を読んだときもそうだったが、官憲に殺された悲劇の活動家の伝記でこれだけ笑わせてくるというのは、もうそういう一個の才能である。

 

自己の生を愛欲のおもむくままに肯定しぬき、現在は郷土の偉人として語り継がれるどころか、地元福岡・今宿の老人に「淫乱女」とまで罵られる伊藤野枝。人の迷惑もかえりみずただただ求めるままに愛し、得るものは得る!本書は最高のラブコメ論としても読める。読めるか!?

 

とまあ、そんな読みかたをする必要性はゼロもいいとこだが、ほかにぼく個人の関心に沿ったところで言えば、当時の日本とロシア・ソ連との思想的なつながりが垣間見えるような部分はとりわけ興味深く読んだ。たとえば「わがまま」(これは伊藤野枝が書いた小説の題名であり、この本全体をつらぬくテーマでもある)に生きることによって自然と物事がおさまるべきところにおさまるという彼女なりのアナーキズムは、本書にも名前の登場する(野枝が読んでいたとは書いていない)19世紀ロシアの作家チェルヌィシェフスキーの「理性的エゴイズム」の発想をほうふつとさせるし、上からの政治的支配を否定し、個々人が有機的に連関しあうパーツとなって「中心のない機械」として組織される社会を是とする思想は、野枝の同時代、ソ連においてガスチェフやボグダーノフらボリシェビキの思想家が、テイラーシステムなどを応用して労働者たちを「集団的人間」として訓練し、やがて「機械と人間の一体化」を夢見るにまでいたったことと響きあう。*2

 

とはいえ、こうして勉学のために読んで欲しいものが得られる学術的な本かと問われるといささか心もとない(それでも註と参考文献がしっかりついているのは、やはりアカデミズムの世界できちんと訓練を受けた人なのだなとは思わされるが)。むしろ本書の本領は、これをアジテーションとして読んだときにもっとも明瞭に発揮されるのではないか。むずかしい話はとりあえず抜きにして文章のグルーヴに身をまかせれば、野枝の「わがまま」ぶりが放射する解放感が読者のもとにもれなくおとずれるだろう。

 

そうそう、著者もさることながら、伊藤野枝の書く文章からはどれもものすごい熱がほとばしっていて、引用されるどれもこれもほんとうにサマになっている。読んでいて気持ちがいい。ただそのなかでも、恩師である若い女性教師が自殺をしてしまったときに書いたその架空の遺書は、ただ熱いだけではない、心の底からの無念さと悲しみが感じられていたたまれなくなる。死んでしまった人間の遺書をあとづけで想像して書くというのは、いわゆる「一般常識」的に考えるとちょっとギョッとしないでもないのだが、まあ今日の感覚からそんなことを言ってみても詮ない。故郷を離れてから、まるでかつての教師と生徒の関係が逆転したかのように悩みを手紙で聞きつづけ、はげまし、ついには救うことがかなわなかった野枝は、こうでもしないと因襲にがんじがらめになって死んでいった恩師への弔いは果たせないという、やむにやまれぬ思いにつき動かされて筆を走らせたのだろう。

 

私はよわいけれどぐちはこぼしません。あなたもそれを肯定してください。私の最後の処決こそ私自身の一番はじめの、また最後の本当の行動であることをよろこんでください。私のその処決がはじめて私の生きていたことの本当の意義をたしかにするのです。私は私の身をまた生命をしばっている縄をきると同時にすべての方面から一時に今までとり上げられていた自由をとり返すのです。どうぞ私のために一切の愚痴はいわないでください。(栗原康『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』岩波書店、2016年、43頁)

 

束縛し、生かさず殺さずでこきつかい、緩慢な自殺を強いてくる社会にあって、あやつり人形がみずからのあやつり糸を断ち切るための手段が一気呵成の自殺のみというのはあんまりな悲劇だが、これが他人事とは思えない現代日本の状況というのもまた悲劇でしかない。

 

野枝もまた、この先生のように自分で手を下したわけじゃなかったが、結局は自由に生きたことへの報復のようにして、社会に殺されてしまった。労働者だろうが女性だろうが、弱い立場にあるとみなされる者たちが反抗すれば容赦なくたたきつぶされる社会。本書はアナーキズムの本であると同時にフェミニズムの本でもある。というか、野枝にとっては当時の日本の旧弊な政治・社会制度をうち壊すということはとりもなおさず、結婚とか不倫とか出産とか家事とか育児とか堕胎とか、そういう個人的な問題を真に個人的な問題として生きなおすということと不可分であった。

 

男性は原理的にフェミニストたりえないという意見もあるなかで「野枝とともに、あたらしいフェミニズムの思想をつむいでいきたい」とまでうそぶく著者にはハート強ぇえなーと思わされるが、まあ実際セックスワーカーフェミニズムの微妙な関係とか、けっこう現代的な意義のある視点も盛り込まれている気が素人目にはする。がしかし、野枝の思想が今でも通用するってことはつまり、今の日本の状況が根本では100年前とそうは変わっていないということでもあるよなあという、絶望的な思いが同時に心をかすめたりもするのである。要するに、『いちご100%』がどうとか、あるいは『true tears』の石動乃絵も「ノエ」だったなあとか考えながら読んでマジごめんなさい。

 

なんだか暗いところに逢着してしまった感があるがそれはぼくの勝手で、ともかくこの本は読んでいて元気の出るとてもいい本だと思います。自分の命と自分の満足以外に忠誠をささげる先なんてないだろうという、当たり前の事実を思い出したら、明日からはもっと不真面目に暮らそう。

 

「吹けよあれよ、風よあらしよ」by 伊藤野枝

 

*1:ところで最近の10代くらいの若人って『いちご100%』読むのだろうか。読んでいないなら今すぐ読んで、真の恋愛旋風を前に膝を屈するべきであり、『ラブライブ』を見て2次元のアイドルとの疑似恋愛を妄想している場合ではない。

*2:20世紀初頭のロシア・ソ連におけるボリシェビキの思想家たちについては、佐藤正則『ボリシェヴィズムと〈新しい人間〉 20世紀ロシアの宇宙進化論』(水声社、2000)を参照のこと。この本、めちゃくちゃおもしろいのでおすすめです。