読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

書評(おまけ)

ところでぼくは昨年、アクーニン『堕天使殺人事件』(岩波書店)の書評も書いたのでした。これもどこに書いたかとかはガン無視してほしいのですが、しかしまあ、それなりに時間をかけて書いたものがあまり人目に触れないというのも悲しいので、書評の恥は書き捨てということで、ことのついでにアップします。ぼくはこれが作品社から『堕ちた天使』として出ていた時にも読んだのですが、結末のなんだかなあ感(あまり言うとネタバレになるので控えますが)とかあって正直めちゃめちゃ人にすすめたいというほどにはなれず(アクーニンは作家として、知識人として、尊敬すべき人物なのだとは思うけど)、今回岩波から一緒に出た『トルコ捨駒スパイ事件』の話もついでにしてしまっている。

 

堕天使(アザゼル)殺人事件 (ファンドーリンの捜査ファイル)

堕天使(アザゼル)殺人事件 (ファンドーリンの捜査ファイル)

 
トルコ捨駒スパイ事件 (ファンドーリンの捜査ファイル)

トルコ捨駒スパイ事件 (ファンドーリンの捜査ファイル)

 

 

じゃあなんで書評書いてんだよというツッコミは当然入るわけですが、そのへんは、まあ、いいじゃん。っていうかね、推理小説の書評って難しいのね。

 

【以下書評本文】

ロシア随一の人気推理小説作家ボリス・アクーニンのデビュー作である『アザゼル』(1998)は、日本ではまず2001年に『堕ちた天使―アザゼル』の名前で作品社から出版された。そして今年2015年、刑事ファンドーリンを主人公とする「ファンドーリン・シリーズ」の、『アザゼル』に続く第2作目にあたる『トルコ捨駒スパイ事件』の翻訳出版に合わせ、従来の訳文に全面的に手が加えられ、題名も『ファンドーリンの捜査ファイル 堕天使(アザゼル)殺人事件』と改められて岩波書店より再登場した。

 

この『堕天使殺人事件』と『トルコ捨駒スパイ事件』の翻訳出版によって、すでに岩波書店より刊行されていたシリーズ第3、第4作の『リヴァイアサン号殺人事件』『アキレス将軍暗殺事件』を含めたファンドーリン・シリーズ最初期の4作品がようやく時系列を追える形でそろい踏みということになった。本国ロシアではすべて同じ1998年に発表され、アクーニンを現代ロシア文学界のスターダムへと一気に押し上げたこれら4作品は、一口にシリーズものと言ってもそれぞれ舞台も違えば語り口も違う、まったく異なった特徴を個々にそなえた作品であり、どれから読んでも問題なく楽しめるつくりにはなっている。とは言えやはり『堕天使殺人事件』にはその後の作品で重要な役回りを演じる人物たちが数多く登場するし、またなにより、少々頼りない「青年」ファンドーリンから一風変わった性格の持ち主である切れ者の「探偵」ファンドーリンがどのようにして誕生したのか、その経緯を描いた作品でもあるので、これからアクーニンを楽しもうとお考えであれば、ぜひ1作目から順にひも解かれることをおすすめしたい。二作目の『トルコ捨駒スパイ事件』で、ファンドーリンが露土戦争の白煙立ち込めるトルコやブルガリアで一大推理活劇をくり広げるのも、『堕天使殺人事件』で明らかにされるある事実が直接の発端となっている。

 

1876年のロシアを舞台とする『堕天使殺人事件』、その物語はある日のモスクワの公園、貴族の少女とその家庭教師の目の前で白昼堂々決行されるひとりの青年の拳銃自殺によって幕を開ける。主人公エラスト・ペトローヴィチ・ファンドーリンは、もとは裕福な生まれながら父親が事業に失敗して零落、さらには19歳になる年に両親と死別して孤児となり、20歳となったいまは14等官の文書係としてモスクワの警察署特捜部に勤務する、まだあどけなさの残る青年だが、ようやくめぐってきた活躍の場とばかりにこの奇妙な事件を追い始める。捜査の途上でファンドーリンは、素性不明の絶世の美女アマリヤや、イギリスの篤志家レディ・エスターが設立した養護施設「エスター館」の関係者たちに出会い、彼らを中心に渦巻く壮大な陰謀事件のただなかへと足を踏み入れていくことになる。

 

こうしてテンポのよく進むミステリーのプロットの合間には、ロシア文学をかじったことがあるものなら思わずにやりとしてしまうような文学的遊戯のタネが仕込まれており、それが本作の魅力のひとつにもなっているが、それらの仕掛けについては訳者あとがきでいくつか種明かしがなされているので解説をくりかえすことはしない。ここではそれとは別に、あとがきでは触れられていない作品の背景について補足的に説明しておこう。

 

本作にはファンドーリンに彼の上司が、ドストエフスキーの『悪霊』を読んだかどうかたずねるシーンが出てくる。カリスマ的な青年に感化された若者たちが秘密結社を組織して革命思想やラディカルな宗教論に熱狂し、ついには内部分裂を起こし転落していくさまを描いた『悪霊』が雑誌「ロシア報知」に発表されたのが1871~2年であり、ファンドーリンたちにとってはまさに同時代の人気作家の新作だ。19世紀後期のロシアでは、1861年の農奴解放をひとつの象徴として、リベラルな思想の伸長がいちじるしかったのだが、そうなると今度は逆にそれに抗する反動勢力も力を強める結果となり、一言で言って非常に不安定な世情を呈していた。ロシア皇帝アレクサンドルⅡ世が専制政治を打倒しようとする急進派に暗殺されたのが1881年、『堕天使殺人事件』の作品世界の5年後である。

 

アクーニンはこうした時代状況を巧みに作品に反映させ、たんなる推理小説としてだけではなく歴史小説としての厚みも持たせることに成功している。たいていの推理小説には、犯人が自身の犯行をあばかれたあと、犯行の動機を滔々と開陳するお約束のようなものが存在していて、『堕天使殺人事件』もその例に漏れていないが、おもしろいのは本作で明かされる動機が一個人の私怨や利害にまつわることがらではなく、もっとスケールの大きな、ロシアをはじめとする各国の政体を揺るがしかねない陰謀であるというところだ。『堕天使殺人事件』は「探偵vs犯人」のミクロな頭脳戦であるのみならず、警察という「体制」側の人間であるファンドーリンと、それを否定し撹乱し蝕もうとする勢力、「テロリスト」たちとの政治的な戦いという別の層も持ち合わせている。いささか脱線するが、シリーズ二作目の『トルコ捨駒スパイ事件』で、ファンドーリンと並ぶもうひとりの主人公である「進歩的」少女ワーリャは、ファンドーリンが警察組織の人間であることを知って不信感を隠さない。その後半世紀と生き延びられない運命にあるロシア帝国の揺らぐ屋台骨を支えるファンドーリンは、ワーリャにとって単純明快な善のヒーローというわけではないのである。

 

こうした背景知識をもとに読んでみると、アクーニンの推理小説が一読してすっきりとかたのつく勧善懲悪の物語には見えなくなってくる。『堕天使殺人事件』で(あるいは『トルコ捨駒スパイ事件』でも)ファンドーリンが最後に直面する、国家という権力に相応の力でもって対抗しようとする悪人たちの言い分にどこか共感を覚えそうになるのは、上に説明した19世紀ロシアの複雑な社会事情を、また強靭な批判精神を持つひとりの「悪人」として、ロシアの現政権に対する批判的な発言を敢然と続ける作者のリベラルな知識人としての一面を、知っているからかもしれない。

 

『堕天使殺人事件』の文学史的な位置づけについても付言しておこう。ロシアの著名な批評家クーリツィンは、現在まで15作にわたって続く人気シリーズの記念すべき第1作目である『堕天使殺人事件』を、1990年代ロシア文芸の必読書10冊のうちに数えいれている。クーリツィンがほかに挙げる顔ぶれを見てみると、日本でも近年とみに知名度の挙がってきた感があるソローキン、ペレーヴィン、ウリツカヤ、トルスタヤなど、どちらかといえば「ハイブロウ」な作家たちが並ぶ。この列に混じると、みずからをあえて「大衆作家」と位置づけるアクーニンの、純粋に娯楽性を追求した本作はやや異色に見えなくもない。だがやはりアクーニンはソ連崩壊後のロシアを代表する作家のひとりであって、日本文学者やロシア史家などアカデミシャンとしての顔も持つ彼の作家としての活動には、現代ロシア文学の流れを決定的に方向づける非常にしたたかな戦略が隠れていることを指摘しておかねばならない。

 

『堕天使殺人事件』のあとがきで訳者はアクーニンを、それまで自明とされてきたいわゆる「純文学」と「大衆小説」のあいだにある垣根を壊し、中間的なジャンルを打ち立てることによって、現代ロシア文学に新たな風を吹き込んだ作家として紹介している。こうした視点に関連して、本作の帯にも文章を寄せている沼野充義はかつてある論考で、ソ連崩壊後のロシア文学界で「高い」文学と「低い」文学のあいだにぽっかりと空いていた「すき間(лакуна)」を埋めた作家としてアクーニンとペレーヴィンを例示し、日本における村上春樹吉本ばななの役割との比較を試みている。そういえば、村上春樹の『羊をめぐる冒険』がロシアではじめて出版され一躍人気を博したのが、アクーニンの作家デビューと同じ1998年であった。偶然と言えば偶然に過ぎないが、1990年代にロシアの文学界に新鮮な空気が入り始めていた事実を端的にあらわしていると見なせなくもない。クーリツィンもまた、アクーニンが自身を「すき間」作家と呼び、あえて「偉大でない」作品を書くことでほかにない独自の手法を確立していったことを評価している。

 

それまでのロシアでは作家は「魂の技師」とまで呼ばれ、ただの物書きとしてではなく社会全体を先導するオピニオン・リーダーとしての役割を期待されていた。その一方で、SF、ファンタジー、推理小説、恋愛小説などのジャンル小説は一段低く見られており、良き作家が精力を傾ける対象とは見なされていなかった。こうした状況にあってアクーニンは、ロシアの文学的伝統を踏まえつつも娯楽小説の手法を自作にぞんぶんに取り入れ、ロシア文学の硬直した状況を活性化する。現代ロシアで、たとえばソローキンが『ロマン』や『青い脂』における古典作品の文体模写によって唯一ありうべき公式の文体を破壊しようとし、あるいはペレーヴィンが『チャパーエフと空虚』でファンタジー的な手法によってソ連共産主義の呪縛をかなぐり捨てようとしたのと同じことを、アクーニンは推理小説と古典文学の融合という形でおこなった。彼らの作品が互いに似通っているとはとても言いがたいが、それでも彼らの文学的営為には、自国の文学にまとわりつく旧弊なイデオロギーを骨抜きにし、新しい時代の流れへ沿うように作り変えてしまおうという強い意志が共通して感じられる。

 

それにしても、こうして堅苦しく作家の知的な戦略についての解説を書けば書くほど、これはどうにも小説そのものを楽しむのに適した態度とは言えないのではないかという思いに駆られる。いくども強調しているように、本作は一義的にはあくまでもエンターテインメント作品なのであって、まずはなにも考えずに物語の世界に身をひたせばいい。歴史・文化に関する該博な知識とエンターテインメント性をうまく融合させているところから、アクーニンをイタリアの高名な記号学者にして大人気作家のウンベルト・エーコに比する声もあるようだ。もっとも評者のごく個人的な印象としては、19世紀という時代設定、警察組織を軸に展開するストーリー、歴史上の実在の人物をうまくフィクションに織り込む手法といった符号から、遠い昔に読んだ山田風太郎『警視庁草紙』などがなつかしく思い起こされたのであるが。

 

ちなみにこの『堕天使殺人事件』、本国ではその大変な人気ぶりにテレビドラマにもなったということで、アクション映画さながらのはげしい映像が脳内に再生されんばかりの格闘シーンもふんだんに盛り込まれた本作(クーリツィンはそのものズバリ「ハリウッド的」と評している)であるから、そのドラマ化されたものもぜひ見てみたいという気がする。だがまずは、『堕天使殺人事件』の本文に織り込まれた19世紀文学の香りと、現代ロシア文学的な卓抜な技巧を、こなれた翻訳によって楽しもうではないか。「重い・暗い・長い」と避けられがちなロシア文学への入り口としてもうってつけだろう。