そしてある日人類は「食」に復讐する

料理人は、たとえ素人であっても、しっかりした倫理的基盤をもたない意気地無しになる権利はない。誰でも好きなように食べればいいじゃないか、などという道徳的相対主義は、料理の道とは相いれないものだ。(ピョートル・ワイリ、アレクサンドル・ゲニス『亡命ロシア料理』沼野・北川・守屋訳、未知谷、2014、45頁)

 

「食べ物で遊ぶな!」とは、おちゃらけた少年少女時代をおくったみなさんのことだから、まわりの大人に一度や二度くらいいわれた経験があると思うのだが、いやしかし実はこれ、食全般にまつわる定言命法とでもいうべきものなのかもしれない。つまり「食」というものは、目の前にしかと存在して手や舌でこねくり回せる食材や料理などの物質的側面に限らず、それを言葉の上で語るだけだとしても、不真面目に取り扱うこと、それでもってふざけることを本質的に許されず、ある程度までは道徳的かつ保守的に向き合うことを要求される対象なのかもしれない、という。

 

さいきん食に関するエッセイ集をはからずも2冊並行して読み進めていたとき、まったく毛色のちがう両者ではあるけども、そこに共通するイデオロギーと、それに起因するほのかな息苦しさみたいなものを感じていた。

 

食べること考えること (散文の時間)

食べること考えること (散文の時間)

 
亡命ロシア料理

亡命ロシア料理

 

 

『食べること考えること』は、そもそも著者の『ナチスのキッチン』という本がおもしろそうだと思っていたところに、先に山形浩生の批判的な書評を読んで妙に納得してしまい、しかし読みもしないのに批判だけ聞くというのもフェアじゃないよなあ、けどこの本高いし厚いし、ということで、折衷案としてとりあえず軽めのエッセイ集を手に取ったという(どうでもいい)いきさつがあった。本書は京大で農業思想史を講じる著者が、いろいろな媒体に発表したエッセイやら書評やらインタビューやらを集めたもの。それぞれに長さも文体もまちまちで、通読してどうこうという本ではないので拾い読みという感じにはなってしまった。そしてやはり、山形浩生の批判は当たっているかなと思えてしまうところがある。個々のエピソードは非常に興味深く勉強になるのだが、著者の食や農に対する真摯さ、生真面目さが、それらの行き着く先をあらかじめ規定してしまっているような語り口は、しばしば文章を退屈なものにしていたと個人的には思う。

 

さいきんではエンタメの分野でも『もやしもん』なり『銀の匙』なり、あるいはよくわからない文脈でその名が知れ渡ってしまった『のうりん』なり、農業をテーマにしたものが多数世に出てきていて、こういう点では日本のエンタメの多様性みたいなものに素直に感心するのだが、とはいえどんなに娯楽作品として頑張っていても農を語るパートは強い説教臭さを帯びるというのは、もうどうしようもなく避けがたいことなのかもしれない。それが悪いことだといいたいわけでは決してないのだが。

 

ソ連からアメリカに亡命した著者らが、アメリカの食文化の低劣さをののしりながら祖国の食をなんとか再現しようと躍起になる『亡命ロシア料理』は、2人の文才がほとばしるパンチライン満載で、読み物としてのおもしろさは抜群である。1996年に翻訳が出て以来、知る人ぞ知るオモシロ本という感じの扱いだったらしいのが、すこし前にツイッターで誰かが紹介した一文がバズったことがきっかけで2014年になって新版が出るという、SNS時代のシンデレラ出版物。前から読もう読もうと思っていたのだが、やっと今になって手をつけた。ちなみに同著者の『60年代―ソヴィエト人の世界』もめっちゃおもしろい本なので、余勢を駆って翻訳出版どうでしょう、未知谷さん。

 

さて、文体とかテーマに関してはまったく性格を異にするこれら2冊(前者は著者の専門である農業の話が多いし、後者はグルメ・レシピ本的な性格をもつ)に共通するものはなにか。それはつまり、「料理」とは芸術であり、「食」とは美しいものである(あらねばならない)という思想だ。だから「食」の美的性格を損なう要素(それは農作業者を心身ともに酷使するトラクターだったり、あるいはマックのハンバーガーだったりいろいろだが)は徹底して批判され、読者は「食」に対して心から真剣に向き合うことを要請される。

 

さいきんぼくはかなり切実に、食べることぐらいしか楽しみのない毎日を送っていて、某グルメ雑誌じゃないが「食こそエンターテインメント」状態だ。だからそれぞれに良き「食」を追求してやまない上記2冊の著者の心情にはかなりの程度共感を覚えるのだが、しかし「食=美」とまで言われてしまうと、その等式の前でぼくは少々足踏みをせざるをえない。食べることってそんなに美しいことだろうか?という疑問が、または、仮に美しい「食」というものがあるとして、ペヤング松屋やマックは本当にそこに含まれないのだろうか?という疑問が、ぼくの不健康な胸肉のなかにぼそぼそとわだかまっている。

 

というわけで、実はこれまでの話は前振りにすぎず、今回紹介したいのはほんとはこっちの本である。施川ユウキ『鬱ごはん』。

 

 

世の中には食べることが全然楽しくない、食事のことを考えるのが苦痛、なるべく食事にお金をかけたくない、なんなら食べないですませたいというような心性が存在するらしいという事実に、ぼくはうすうす感づいてはいて、見て見ぬふりをしてきたわけだが、いざこうして目の前に突きつけられてみるとなかなかショックだったし、同時に面白味も感じた。

 
世にありとあらゆる趣向を凝らしたグルメ漫画があふれているこの時代にあって、この漫画に出てくるご飯はひたすらにまずそうで、就活浪人中の主人公も、ご飯をおいしく食べようという気がさらさらない。いま食う飯がどうまずいかを最悪の比喩によって懇切丁寧に説明し、読む者の食欲を奪っていく。アンチグルメ漫画とでもいうのだろうか、飯の摂取という人類の根源的営みに対する疑念・怨嗟をこれくらい前面に押し出した表現というのもそうそうない。食べることは楽しいと人はいうけれど、そしてそれに同意することにぼく自身もやぶさかではないのだけど、しかしそれはやはり、われわれ人間は生命活動を維持するために日に3食(別に1でも2でもいいけど)食べないことを許されないという前提を忘れた物言いであるかもしれない。食え、おいしく!食え、美しく! の大合唱とともに、口から目から鼻から食物をぎゅうぎゅうと押し込んでくる社会に恨みつらみを募らせる人間がいたって不思議ではない。
 
たしかにこの主人公は、まずいものをまずく食べることに邁進していて、おまえはなにがしたいんだと怒りすらこみあげてくるのだが、とはいえ彼はそうした営為の中にも一瞬の光明みたいなものを見出すときがある。
 
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(「旨いも不味いも関係ないよ/好きなんだ……寿司」施川ユウキ『鬱ごはん』秋田書店、2013、30頁)
 
それはおそらく『食べること考えること』や『亡命ロシア料理』の著者には、というか、ほとんどのおいしいものが好きな人間には認識できない光だ。でもそれって、どちらの目が、舌が悪いと一概に決めてしまえるようなものだろうか。食とはそんなに単純なものだろうか。
 
まずいものを食べていれば幸せという人はいないだろうが、しかし丁寧に調理された良き「食」にのみ美しさが宿るというのも、イマイチ冴えない主張である気がする。あえて意地悪な言い方をすれば、『食べること考えること』や『亡命ロシア料理』の著者の美的感覚って、かなり偏ってない?ということになるかもしれない。

 

もらった食べ物をトイレに捨てるとか、食べ物を気味の悪い動物の姿にたとえるとか、けっこう真剣に気持ち悪い、生理的に受けつけない描写がたびたび登場するし、漫画として出来がいいのかどうかすらもはやぼくには判断がつかないので、とりたてて人さまにオススメしようとは思わないのだが、しかしなかなかどうして、ぼくのような頭ホンワカパッパ野郎には、なにかしら突きつけてくる漫画であった。『バーナード嬢曰く。』は作者の上澄みに過ぎなかったのである。

 

唯一無二のアンチ飯イデオロギーをたずさえて驀進する『鬱ごはん』よ!!!!!!!

闘え!!!!!!!

「食」に不真面目さを持ち込め!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

そして復讐するのだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!

この飽食の世界に!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

ピィーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!