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百日紅×百日紅

アニメ 映画

NHKに『コメディーお江戸でござる』っていう番組があって、小さいころ好きでよく見ていた。本編の喜劇も面白かったけど、それが終わったあと、江戸文化研究家の杉浦日向子さんが出てきて解説をするパートも好きだった。彼女の本をきちんと読んだこともなく(父が持ってた『ソバ屋で憩う』を眺めたことはある気がするが)どんな人なのかあまりよく知らなかったので、なんか顔の丸いほわんとしたおばさんが江戸に詳しいぞ、とか思いながら見ていた。というわけで、彼女が亡くなったときはなんかほわんと悲しかった。

 

そんなことを先月、杉浦日向子原作の『百日紅』というアニメ映画を見て思い出したのだった。葛飾北斎こと鉄蔵とその娘栄(えい。絵師としては葛飾応為の名で有名)、北斎の弟子の善次郎らを中心に、江戸の風俗、有名絵師たちの日常を淡々と描く、だけでなく江戸の都市伝説、怪談みたいなものも織り交ぜつつすすむこの作品、台詞回しがキビキビと小気味よくて、すばらしくよくできた時代劇だった。

 

まあそもそも時代劇は好きなのだ。それで原作の漫画のほうも買って読んでみた。するとそこでアニメ化の際に原作から改変がなされていることに気づき、それがけっこうよい作品解釈になってるなあと思ったので、記憶が萎まないうちに感想を書いておこうと思う。

 

百日紅 (上) (ちくま文庫)

百日紅 (上) (ちくま文庫)

 
百日紅 (下) (ちくま文庫)

百日紅 (下) (ちくま文庫)

 

 

 『百日紅』、漫画のほうは連作短編という形を取っていて全話を串刺しにするストーリーらしいストーリーはない。またそれがしょっぱなから生首の話だったり、あるいは登場人物の女性が強姦される回があったり、けっこうえぐいというか大人向けのエピソードも満載だから、なるほどこれをそのまま文科省推薦全年齢向けアニメ映画にするのは無理があったのだと分かる。

 

じゃあどうするか。この作品が北斎、お栄、善次郎らにフォーカスして進んでいくのは原作も映画も同じだが、映画のほうにはもう1人の中心人物がいる。生まれつき目が見えないために尼寺に預けられている北斎の末の娘、猶(なお)である。映画はこの子を1本の軸として物語が進む。

 

切禿(=おかっぱ頭。尼寺に入ってるからね)がかわいいお猶、目が見えず体が弱く、「おとっさん」思いのけなげな女の子であるお猶は、妹思いのお栄に江戸の町をほうぼう連れまわされ、橋を行き交う人びとの物音に耳を澄ませたり、船に乗って水の感触を知ったり、雪にはしゃぎすぎて風邪をひいたり、映画全編にわたってとにかくかわいらしく魅力的に描かれている。

 

ところがこのお猶、漫画ではどういう扱いかというと、僕の持ってるちくま文庫版だと下巻の最後のほうに収録の第28話「野分」にしか出てこない。「野分」のエピソードはこれだけで非常に印象的で、映画のほうにもそっくり採用されてはいるのだが、とにかくお猶、原作では別に中心人物でもなんでもなく、橋も船も雪も知ったこっちゃない。

 

「体が弱くてけなげな女の子(障害があったりするとなお良い)」に焦点を当てて感動を誘うというのは、露骨なお涙ちょうだいの創作物でさんざんに使い尽くされた古臭いもの、とは誰でもそう思うんじゃないだろうか(好き嫌いはまあ別としても)。実は映画を見終えて漫画を買うとき新宿紀伊国屋書店で最初に確認したのが、猶がアニメ制作者たちのオリジナルじゃないかどうかということだった。猶という子が、江戸文化の時代考証に熱意を燃やしリアリティのある時代物を作ろうとした原作者の意図したキャラでない、現代的な情緒への安易なすり寄りの証だったとすればアニメ版の評価は下げざるをえないと思ったからなのだが、その心配は一応のところ杞憂に終わり、ほっとして原作の方も購入したという次第だった。

 

とはいえ猶の扱いが原作から大きく逸脱していることに変わりはない。映画における猶の扱いをどう見るべきか。単純にファミリー向けの感動物語に仕立てなおすための道具という見方もできるだろうし、製作者にそういう意図が0だったわけでもないとは思う。それは別にさほどの悪でもない。先ほども述べたとおり、原作はそれだけでは1~2時間の長さの物語にはならないぶつ切りの短編集であるから、原作を壊さない範囲で何かしら芯を入れないと映画として成り立たない。

 

そこで原作では「野分」1話にしか登場しない端役と言ってよいお猶が重要人物に据えられたわけだが、これは悪くない選択だったと思う。なぜなら目が見えない猶という人物を前面に押し出すことは、彼女の「弱さ」で観客の感情をガシガシと駆り立てるというだけではなしに、徹底して「視覚の人」である北斎と、視覚というものが存在しない世界、大天才の北斎が自分の目と筆だけではどうあっても到達しえない世界に住む猶、という対比を強調し、画家北斎、もっと言えば人間北斎の業みたいなものをうまいこと浮びあがらせて新たな『百日紅』を構築したように思えたからだ。映画『百日紅』は原作『百日紅』の28話「野分」をうまく解釈し、ふくらませた作品と(も)言える。

 

「野分」は、病気になって尼寺から後妻の家にいったん引き取られてきたお猶に北斎が久々に会いに行くというお話だ。そこでお猶は父親の顔を触り、この人が父・鉄蔵であることを「見る」。このとき場面は暗転し、暗闇の中に猶と北斎だけがぽっかり浮かびあがる。にゅっと伸び上がるお猶の白い手。その手につかまれ、暗い、深い淵を無理やりに覗きこまされたかのような、なんとも言えない北斎の顔。自分が「見る」のとはまったく違う「見る」が存在するということ、恐怖。

 

アニメでもこのシーンは採用されていて、アニメ全体のそれこそ浮世絵のようなはっきりした色彩の連続と好対照を成している。活気あふれる江戸を描いて描いてののちに唐突に現れる暗闇には、ドキッとする。

 

お栄が甲斐甲斐しくお猶の世話を焼く一方で、北斎が猶に会うことを、なにかを恐れるかのように執拗に避ける描写が映画のほうには繰り返し出てきて、そのせいで北斎はお栄に、娘がそんなに恐えのかよ!と罵倒されたりするのだが、江戸を、というか日本を代表する画家が唯一恐れるのが、目の見えない実の娘であるというのは非常におもしろいところだ。

 

その点お栄の言動には、お猶への恐れ、気後れみたいなものは感じ取れない。それはもちろん彼女がお猶を産んだわけではないから、姉というある意味では気楽な立場だからというのと同時に、お栄がまだ自身の画家として自分の才能を完全には自覚していない、発揮していないから、ということもあると思う。たぶん。暗闇の怖さをお栄はまだ知らない、知れない。

 

映画の最後、北斎がポツリと漏らす映画オリジナルの台詞が、自らの才能と引き換えに目の見えない娘を作ってしまった自分という人間へのいたたまれなさを表現している。お猶は障害を持っているという点では「弱い」存在だが、「野分」で見せる神秘的な感性の数々はとてもとても「強く」、それはときに北斎のような傍若無人、向かうところ敵なしの才能すら脅かす。まあ、障害者だけが持っている特別な感性、みたいなとらえ方をすればそれはそれでまた陳腐にもほどがあるモチーフではあるのだが、芸術家がほかの才能に、あるいは人の親が我が子に、いだいている潜在的な恐怖とでも言うべきものをえぐりだしたという点では、映画『百日紅』におけるお猶の盲目の扱い方は、通り一遍のダサさは免れてうまく機能していると僕は思った。ま、感想としてはこんなところです。