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「文学的な言葉で政治を語ることは可能か、またそれに意味はあるのか」という問いを立てることに意味はあるのか、そんな議論はやめてうどんを食べたほうがいいんじゃないのか

アニメ 雑記

毎週木曜日は『グラスリップ』。これは最高のアニメである。説明は要らない。愛さえあればそれでいい。

 

ところで最近知り合いの女性が「若者文化を知りたい」と老女みたいなことを言いだし(僕よりは年上で既婚だが、別に、まだ全然若い)やおらTwitterを使いだした。Twitterが果たして「若者文化」なのかという至極ごもっともなツッコミは捨て置くが、彼女はそこで僕が『グラスリップ』のことを褒めそやしていたら興味を持ったみたいで、「若者文化を知りたい」と言って見始めた。再度湧き起こるある種の疑問は捨て置き、彼女はなかなか気に入ったらしく、その旨をTwitterのDMで知らせてきた。

 

その1時間後、なぜか我々は「文学的な言葉で政治を語ることは可能か、またそれに意味はあるのか」という問題(だったと思うんだけど)をめぐって激論を交わし始め、その後4,5時間にわたって朝までメールを投げ合うことになる。今思い返すだに意味が分からない流れである。

 

そして、そんな大雑把な議論にまともな結論が待っていようはずもない。「政治」とか「文学」という言葉の定義からしてそもそも始めからズレがあるわけで(僕は一応そこは最初から指摘していたのだぞ、と言い訳はしておく)当然議論は紛糾する。私のほうは、政治は政治的な言語で語るべきだ、という意見だったのでその知人の非論理性、曖昧さ、恣意的な語り口を攻撃し続け、彼女は彼女で、政治を政治的な言語に押し込めることが権力者にとって好都合であることを主張し続け、2人そろって朝日にこんにちは。こうした青春じみた不毛さは知人曰く「すごいグラスリップ」。意味が分かるような、分からないような。われわれ、老いてはいないがさりとて「青春」の2文字が似合う齢でもない。

 

まあ結局最後はお互いもっと勉強だ、仲良くしようという無難なところに不時着し、僕が知人に最近食べたうどんの写真を送りつけて話は終了した。

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三鷹のうどん屋「五図」のすだちおろし醤油うどん大盛り)

 

さて、このような経緯をたどって今僕は眠い目をギョリギョリさせながらブログを書いているわけだが、それは「文学的な言葉で政治を語る」ということの意味を考えていてふと思い当たった具体例があり、それについてちょっとメモっておこうと思ったからである。

 

最近僕は『ボラード病』という小説を読んだ。批評家の佐々木敦含め、ネットでけっこういろんな人が褒めていてなんとなく気になっていたところ、古本屋でたまたま安値で売っていたのを発見し購入した次第である(余談だが三鷹の水中書店、なかなかいい古書店)。

 

ボラード病

ボラード病

 

 

これを読んでみて僕は正直まったくいい小説だとは思えなかった。いや、面白いと言えば面白いのかもしれない、だが文学としては全く評価できないと思った。それはなぜかとずっと考えていたのだが、それはこの作品が「文学的に政治を語る」ことに終始しているからではないか、と先ほどの知人との議論の末思い当たったのである。

 

これは一種のディストピア小説で、あんまり語るとネタバレになっちゃうのでネタバレフォビアの僕としてはこの不気味な雰囲気をたたえた小説の内容の詳細に触れるのは控えようと思うが、これを読んで感じたのは、この小説が今の日本の全体主義的(と、保守的な思想を嫌う一派が呼ぶもの)な雰囲気をそっくりそのまま書き起こしたものだということである。それはつまり、ある特定の思想に小説という手法が追随した、もっと悪く言えば阿った小説であり、いわゆる「作者の意図」みたいなものが丸わかり、というかそれのみによって成り立っている小説だということである。

 

小説が社会の雰囲気の追認にあくせくしてどうすんだよ、と僕は大いに不満だ。先ほども言ったようにこの小説、結構人気があるらしいし、けっこういろんな批評家が褒めてる。でも僕が思うのは、この小説は作者が今の日本に蔓延るある特定の風潮に疑義を呈しているだけであり、作者と同じくそういうものに否定的見解を持つ読者ならば或いは面白く読むのかもしれないけれど(というか僕も本書が批判的に描く今の日本の姿に対しては同じく批判的ではあるのだが)、それならばわざわざ160頁もの小説を書く必要はない、10分の1でも多いくらいの小論文で事足りるということである。同じく『ボラード病』を読んだ人の中でTwitter上でひとり「作家の能力ってこういうまとめ能力のことなの?」的なことを言っている人がいたが、ほんと、この小説は著者の政治的思想のレジュメ以外の何物でもない。そしてレジュメならばもっと簡潔に書けるはずである。

 

『ボラード病』は、意図的に平易にしたと思われる文章の随所に、違和をはらむ表現、あるいはもっと直接的に、人が唐突に死ぬ描写などを混ぜ込むことでラストに向けて徐々に読者の不安をあおっていき、最後この小説内部の世界が逃げ場のないディストピアであるという種明かしをすることによって(なんかまるで「世にも奇妙な物語」の一エピソードみたいだ)「文学的に政治を語る」ことに成功していると思う。だが、その「成功」は僕の目には、この作品が文学的な言語としても政治的な言語としても中途半端であることの証明としてしか映らない。ついでに噛みつくには敵として強大過ぎる気もするが、ディストピア小説の白眉たるオーウェルの『1984年』が嫌いな理由もそこにあるんだろうと思う。文学は文学、政治は政治。『1984年』を引用して安倍政権を批判したって何の意味もない。政治批判がしたいなら、政治のために紡がれた論理的な言語で正面からすべきだと、僕はいまんところ思ってる。

 

めちゃめちゃ悪しざまに言っといてなんだが、僕はこの小説について人に話したくてうずうずしてたのも事実である。「あんまり面白いとは思えないんだけど……」とか言いつつ人に紹介してるってことは、ある意味著者の術中にすかっと嵌まってるってことなのかもしれない。悔!