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『エクス・マキナ』という映画を見ました。

日本での公開が決まるずいぶん前にたまたまメイキング映像を目にして、とてもおもしろそうだと思っていた『エクス・マキナ』が、ようやく日本の映画館でもかかった。新宿のシネマカリテは水曜がサービスデー。1000円。

 


映画『エクス・マキナ』予告編

 

人工知能エヴァ」を開発したプログラマー社長に対し、部下である主人公が物語の冒頭で、これは神にも等しい行いかもしれないとおべっかめいたことを言ったり、プロットの主要部がDay1からDay7へと続く1週間の出来事として構成されていたりと、本作が人工知能の作成を、聖書の神による人間の創造という陳腐なアナロジーで語ろうとしていることは明々白々なのだが、しかしその陳腐さとはおそらく、あるひとつの錯誤へわれわれを導くための制作者の、あるいは、映画中の言い回しを借りれば観客をミスディレクションする「手品師」の用いる小道具ということになるのだろう。映画ラストのどんでん返し的な展開をもって、古代ギリシャの演劇手法である「機械仕掛けの神」から取られた題名の根拠とする感想にネット上でいくつか行き当たったが、それだけだとすこし説明不足の感をおぼえる。というのもぼくには、そうした説明では見過ごされている、そもそもこの映画のタイトルが『デウス・エクス・マキナ』ではなくて『エクス・マキナ』であるということ、つまりこの映画という機構の内部には「デウス=神」など端から存在しないということが、とても重要なことのように思われるからだ。ではいったい、「機械仕掛け」なのは誰/何か?

 

言わずもがな、人間と機械、人間と物(自然)を分かつ境界線の不安定さに起因する恐怖や不安、そしてそれに対する「傾向と対策」みたいなものは、おそくとも17世紀、わたしたちの住むこの世界を神によって緻密にプログラミングされた自動機械とみなしつつ、その内部に、人間だけが出入りを許された「魂」という特権的な(そして非常に窮屈な)居場所を確保しようとしたデカルトからずっと練られ続けていて、べつにいまさら騒ぐようなことでもない、そう言ってしまえばそれまでだ。それまでだけど、とはいえ囲碁や将棋の世界でトッププロが立て続けにAIにボコボコにされ、人工知能に対する期待と恐怖心がない交ぜになった関心がふたたび盛り上がっている昨今、哲学者でも技術者でもないぼくのような人間の玄関先にまで、そうした問題が切実さをもって迫っていきているのが事実なら、いっそエンタメの力も借りて、できるだけ楽しく騒ごうじゃないかというのは悪くない提案である。やんややんや。

 

物語の核心にはめいめいで触れたほうがいいと思うのですこし話を逸らすが、日本でもけっこう翻訳紹介がすすんでいるロシアの現代作家V・ペレーヴィンの2011年の長編に『S.N.U.F.F.』というものがあって、これにもガイノイドセクサロイド)の反抗というモチーフが登場する。

 

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『S.N.U.F.F.』の主人公は、年端もいかない少女を模したセクサロイドに対して非常に乱暴に、支配的にふるまうクソみたいな男として描かれているのだが、あるとき彼がその少女=セクサロイドに、たしかにわたしたちは物理的にプログラミングされただけの機械かもしれないけど、あなたたち人間の行動だって、脳内の化学物質の働きによってあらかじめ規定されているんだから、そこに大した違いはないじゃない? という理屈を披露され、たじろぐシーンがある。この小説のおもしろみは、強圧的な上下関係、支配/被支配の構造が、バカバカしい(これ大事)ストーリーのなかで徐々にグズグズになっていくところにある。

 

エクス・マキナ』で似たような議論が、主人公とプログラマー社長の間で交わされる場面でぼくはこの小説を思い出して、まあこの種の問題に関して専門家としてではなくあくまで創作者としてたずさわるなら、理解できる範囲で依拠する思想なり哲学なりも共通してくるわけで、似通った議論が提出されるのも無理はないわなとは思った。人工知能と性のかかわりが重要なファクターであるところまでそっくり。

 

これ以外にも、SFにも映画にもまったく詳しくないぼく(いや、マジで)ですら、『エクス・マキナ』で語られるテーマの系譜を構成するであろう作品を、ジャンル横断的かつ無作為にではあるがいくつも(それこそホフマン『砂男』から吉浦康裕イヴの時間』まで)パパッと挙げられるくらいだから、こうした方面により詳しい人から見れば、すでに述べたとおりテーマ的な新規性によって驚かされるということはないのではないかと思う。

 

しかし大事なのはもちろん、そのよくあるアイデアが映像によってどう表現されているかであって、こういう社会的・政治的・学術的にホットな話題を盛り込んだ作品を作ろうといって、ガチャガチャしたアクションとは異なる可能性として、きちんと見ごたえのある映像を作れる人たちというのはたいしたものだなあと、すごく素人くさい感動は覚えた。最初にトレーラーを見たときのワクワク感は裏切られなかったということになる。『エクス・マキナ』、いちおうカテゴリーとしてはスリラーということらしく、たしかに色や音の演出は露骨にビビらせにきているなという感じがあったし、ぼくはこわい映画がひたすらに苦手なので、やめてくれと思った。

どうしておなかが

おなか空きませんか?空きますよね。でもそれがキミの生きる証。

 

新宿「ほりうち」のラーメン。麺がすごくおいしいが、すごく量がおおい。いやしかし、さいきんのこじゃれたラーメン屋の麺がすくなすぎるだけなのかもしれない。

 

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どうでもいいが、これを食べたのが『サウルの息子』を見たあとだったので、飯なんか食ってる場合かよと思いつついつまでもずるずると麺をすすっていた。

 

荻窪五稜郭」の塩ラーメン。本場函館の味を完全再現。

 

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ちなみに本場函館の味をぼくはよく知らない。

 

早稲田「焼麺 劔」の焼き麺。麺が焼き固めてあるので箸で持ちあげづらい。味はよい。

 

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 早稲田大学の留学生なのか、それとも旅行者なのか、若い中国の男性が5人ぐらい店にいた。グローバルであると言える。

 

東小金井「くじら食堂」の限定、ローストビーフガーリックまぜそば。ローストビーフ、流行ってるのかね。

 

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新宿「庄の gotsubo」の塩ラーメン。5坪かどうかは知らないが、席は5席。おいしくてびっくりした。ここさいきん食べたラーメンの中ではいちばん。(2016年7月8日追記:6席だった。知るか!!!)

 

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『ブブキ・ブランキ』を見ました、ほか。

いまごろになってやっと『ブブキ・ブランキ』の最終話を見た。2月の頭くらいだったか、2016年の冬クールのアニメでおもしろいのなんですか?と知人に聞かれてぼくはこれを挙げたのだが、知人は3、4話見て、説明が少なすぎて話の流れがよくわからないといって投げたみたいだった。

 

はじめにぼくがこのアニメを気に入ったのは、そもそものアニメーションとしての迫力とか(バトルもので自分はまだ興奮できるんだなとうれしくなった)、キャラの魅力とか(黄金ちゃん。あと敵キャラもかっこいい。「四天王」って真面目な文脈でひさしぶりに聞いた)、武器のデザインとか(フジリュー版『封神演義』の宝貝を思わせるところがある)、メガネのデザインとか(メガネ!!!)そういう要素からで、ストーリーについては見進めればおのずとわかってくるだろうとそのときは思っていたのだが、たしかに知人のいうとおり、急すぎる展開、説明不足は途中からずっと気になっていた。

 

2013年にノイタミナで放送されたアニメで『ガリレイドンナ』というのがあって、これが設定やキャラクターは魅力的だったものの、ほんとは2クール(1クールは3か月で12、3話)作る予定だったのが制作の都合で1クールになり、終盤の展開がグダグダという残念作品だった。作品の外の事情でストーリーがゆがめられてしまうのは残念としかいいようがないが、『ブブキ・ブランキ』もひょっとしてそのパターンなのでは?と疑いながら見ていた。ところがどっこい、最終話の放映後流れたCMによれば続編の制作はすでに決定しているようだ。それくらいの体力があるんだったら、1期の12話分をもうすこしゆっくり丁寧にやってほしかったなというのがぼくの本音ではある。ほんとだったらこういう壮大な世界設定のアニメは、NHKとかで6時台くらいに1年とか半年とかかけてやってくれたらいいのにと思う。でも日本のアニメ業界にはもはやそんな余力は残されていないのだろうか。かもしれない。

 

ま、業界の事情への雑な懸念は置いとくとして、それでもなお『ブブキ・ブランキ』は日ごろラブコメばかり見るようになってしまった惰弱なぼくに、ひさびさに戦闘シーンのわくわくを思い出させてくれた良作だったと言いたいです。2期も見ます。がんばってね!!!

 

このほか、安定の『僕だけがいない街』、癒しの『だがしかし』、京アニの汚点『無彩限のファントム・ワールド』が3月まで。4月からは『くまみこ』『ふらいんぐうぃっち』『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』『甲鉄城のカバネリ』『迷家―マヨイガ』。今期は当たりが多いです。

 

映画もたまには見る。18日月曜、渋谷で『バイツァ・ダスト』という、ロシアの若い監督のコメディ映画を見る。

 

www.youtube.com

 

「バイツァ・ダスト」は"Bite the Dust"、英語の題名をそのままカタカナ化しただけで、原題は"Отдать концы"、これは船乗りの掛け声で「出航!(もやい綱を解け)」くらいの意味だということだ。18日限定の上映会という形をとって、チケット1000円とドリンク代500円、この日2回の上映で終わりだそうで、なんの気なしに予約して見に行ったら、予約分だけで席はいっぱい、当日券をアテにやってきた人は見られなかったらしい。案外くるもんですね、人。

 

コメディコメディいうからそういうもんかとなんとなく身構えていたが、ゲラゲラ笑わせにかかるというよりは(いや、わからない、ロシア人のツボはわからないけど)、ペーソスの水面にユーモアのインクがじわじわとにじんで広がっていくような、チェーホフが喜劇というときの喜劇、とでもいえばいいのだろうか。申し訳ないけど笑っちゃうよね、という感じの笑いである。ラストについては、ちょっと監督、人が好すぎるんじゃないですかと思わないでもなかったが、それはぼくの目ん玉がゆがんでいるからそう映るだけのことだろう。全体としては十分楽しめました。1日しか上映しないのはもったいない。

 

あとはまあ、この何か月かの間に、『花とアリス殺人事件』とか『エル・スール』とか『サウルの息子』とか『桐島、部活やめるってよ』とか『共犯』とか、借りたり映画館に行ったりしてたまにいいものに出会うことはあった。そんなこんなで気づいたら4月も終わりである。

八つ裂き!恋は自然災害

そりゃまあ順当にいけばそれしかないだろという感じなのだが、 2002年から2005年にかけてジャンプで連載されていたラブコメいちご100%』の作者は当初、主人公と東城綾をくっつける予定だったらしい。しかしみなさまご存知のとおり(ご存知だね?)、最終的に選ばれたのは西野つかさだったのでした。おい!!!

 

作者の意図を超え、物語の流れをねじ曲げたものはなんであるか?それこそ恋の力にほかならない。西野つかさ東城綾にまさっていたのはかわいさではない。単純に意志のエネルギーの総量である。己の恋を、欲望を貫徹せんとする意志の。台風の進路を人力でどうこうすることができないように、作者にすら統御できなかった恋路の行き着く先へと読者が導かれたというその一点においてだけでも、『いちご100%』はラブコメの金字塔と呼ばれる資格がある。*1

 

 唐突におまえはなにを言いだすんだ、定職につけ、とお思いになるかもしれないが、しかしこれがこの本を読みながらぼくが考えていたことなのだからしかたがない。

 

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

 

 

『はたらかないで、たらふく食べたい』から『大杉栄伝』ときて、この著者の本は3冊目。そりゃ文章がうまい人というのは世の中にたくさんいるが、この文体は、そうない。崇敬するアナーキストに憑かれたかのように繰り出されるパンチライン満載の文章は非常に中毒性が高く、そして『大杉栄伝』を読んだときもそうだったが、官憲に殺された悲劇の活動家の伝記でこれだけ笑わせてくるというのは、もうそういう一個の才能である。

 

自己の生を愛欲のおもむくままに肯定しぬき、現在は郷土の偉人として語り継がれるどころか、地元福岡・今宿の老人に「淫乱女」とまで罵られる伊藤野枝。人の迷惑もかえりみずただただ求めるままに愛し、得るものは得る!本書は最高のラブコメ論としても読める。読めるか!?

 

とまあ、そんな読みかたをする必要性はゼロもいいとこだが、ほかにぼく個人の関心に沿ったところで言えば、当時の日本とロシア・ソ連との思想的なつながりが垣間見えるような部分はとりわけ興味深く読んだ。たとえば「わがまま」(これは伊藤野枝が書いた小説の題名であり、この本全体をつらぬくテーマでもある)に生きることによって自然と物事がおさまるべきところにおさまるという彼女なりのアナーキズムは、本書にも名前の登場する(野枝が読んでいたとは書いていない)19世紀ロシアの作家チェルヌィシェフスキーの「理性的エゴイズム」の発想をほうふつとさせるし、上からの政治的支配を否定し、個々人が有機的に連関しあうパーツとなって「中心のない機械」として組織される社会を是とする思想は、野枝の同時代、ソ連においてガスチェフやボグダーノフらボリシェビキの思想家が、テイラーシステムなどを応用して労働者たちを「集団的人間」として訓練し、やがて「機械と人間の一体化」を夢見るにまでいたったことと響きあう。*2

 

とはいえ、こうして勉学のために読んで欲しいものが得られる学術的な本かと問われるといささか心もとない(それでも註と参考文献がしっかりついているのは、やはりアカデミズムの世界できちんと訓練を受けた人なのだなとは思わされるが)。むしろ本書の本領は、これをアジテーションとして読んだときにもっとも明瞭に発揮されるのではないか。むずかしい話はとりあえず抜きにして文章のグルーヴに身をまかせれば、野枝の「わがまま」ぶりが放射する解放感が読者のもとにもれなくおとずれるだろう。

 

そうそう、著者もさることながら、伊藤野枝の書く文章からはどれもものすごい熱がほとばしっていて、引用されるどれもこれもほんとうにサマになっている。読んでいて気持ちがいい。ただそのなかでも、恩師である若い女性教師が自殺をしてしまったときに書いたその架空の遺書は、ただ熱いだけではない、心の底からの無念さと悲しみが感じられていたたまれなくなる。死んでしまった人間の遺書をあとづけで想像して書くというのは、いわゆる「一般常識」的に考えるとちょっとギョッとしないでもないのだが、まあ今日の感覚からそんなことを言ってみても詮ない。故郷を離れてから、まるでかつての教師と生徒の関係が逆転したかのように悩みを手紙で聞きつづけ、はげまし、ついには救うことがかなわなかった野枝は、こうでもしないと因襲にがんじがらめになって死んでいった恩師への弔いは果たせないという、やむにやまれぬ思いにつき動かされて筆を走らせたのだろう。

 

私はよわいけれどぐちはこぼしません。あなたもそれを肯定してください。私の最後の処決こそ私自身の一番はじめの、また最後の本当の行動であることをよろこんでください。私のその処決がはじめて私の生きていたことの本当の意義をたしかにするのです。私は私の身をまた生命をしばっている縄をきると同時にすべての方面から一時に今までとり上げられていた自由をとり返すのです。どうぞ私のために一切の愚痴はいわないでください。(栗原康『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』岩波書店、2016年、43頁)

 

束縛し、生かさず殺さずでこきつかい、緩慢な自殺を強いてくる社会にあって、あやつり人形がみずからのあやつり糸を断ち切るための手段が一気呵成の自殺のみというのはあんまりな悲劇だが、これが他人事とは思えない現代日本の状況というのもまた悲劇でしかない。

 

野枝もまた、この先生のように自分で手を下したわけじゃなかったが、結局は自由に生きたことへの報復のようにして、社会に殺されてしまった。労働者だろうが女性だろうが、弱い立場にあるとみなされる者たちが反抗すれば容赦なくたたきつぶされる社会。本書はアナーキズムの本であると同時にフェミニズムの本でもある。というか、野枝にとっては当時の日本の旧弊な政治・社会制度をうち壊すということはとりもなおさず、結婚とか不倫とか出産とか家事とか育児とか堕胎とか、そういう個人的な問題を真に個人的な問題として生きなおすということと不可分であった。

 

男性は原理的にフェミニストたりえないという意見もあるなかで「野枝とともに、あたらしいフェミニズムの思想をつむいでいきたい」とまでうそぶく著者にはハート強ぇえなーと思わされるが、まあ実際セックスワーカーフェミニズムの微妙な関係とか、けっこう現代的な意義のある視点も盛り込まれている気が素人目にはする。がしかし、野枝の思想が今でも通用するってことはつまり、今の日本の状況が根本では100年前とそうは変わっていないということでもあるよなあという、絶望的な思いが同時に心をかすめたりもするのである。要するに、『いちご100%』がどうとか、あるいは『true tears』の石動乃絵も「ノエ」だったなあとか考えながら読んでマジごめんなさい。

 

なんだか暗いところに逢着してしまった感があるがそれはぼくの勝手で、ともかくこの本は読んでいて元気の出るとてもいい本だと思います。自分の命と自分の満足以外に忠誠をささげる先なんてないだろうという、当たり前の事実を思い出したら、明日からはもっと不真面目に暮らそう。

 

「吹けよあれよ、風よあらしよ」by 伊藤野枝

 

*1:ところで最近の10代くらいの若人って『いちご100%』読むのだろうか。読んでいないなら今すぐ読んで、真の恋愛旋風を前に膝を屈するべきであり、『ラブライブ』を見て2次元のアイドルとの疑似恋愛を妄想している場合ではない。

*2:20世紀初頭のロシア・ソ連におけるボリシェビキの思想家たちについては、佐藤正則『ボリシェヴィズムと〈新しい人間〉 20世紀ロシアの宇宙進化論』(水声社、2000)を参照のこと。この本、めちゃくちゃおもしろいのでおすすめです。

書評(おまけ)

ところでぼくは昨年、アクーニン『堕天使殺人事件』(岩波書店)の書評も書いたのでした。これもどこに書いたかとかはガン無視してほしいのですが、しかしまあ、それなりに時間をかけて書いたものがあまり人目に触れないというのも悲しいので、書評の恥は書き捨てということで、ことのついでにアップします。ぼくはこれが作品社から『堕ちた天使』として出ていた時にも読んだのですが、結末のなんだかなあ感(あまり言うとネタバレになるので控えますが)とかあって正直めちゃめちゃ人にすすめたいというほどにはなれず(アクーニンは作家として、知識人として、尊敬すべき人物なのだとは思うけど)、今回岩波から一緒に出た『トルコ捨駒スパイ事件』の話もついでにしてしまっている。

 

堕天使(アザゼル)殺人事件 (ファンドーリンの捜査ファイル)

堕天使(アザゼル)殺人事件 (ファンドーリンの捜査ファイル)

 
トルコ捨駒スパイ事件 (ファンドーリンの捜査ファイル)

トルコ捨駒スパイ事件 (ファンドーリンの捜査ファイル)

 

 

じゃあなんで書評書いてんだよというツッコミは当然入るわけですが、そのへんは、まあ、いいじゃん。っていうかね、推理小説の書評って難しいのね。

 

【以下書評本文】

ロシア随一の人気推理小説作家ボリス・アクーニンのデビュー作である『アザゼル』(1998)は、日本ではまず2001年に『堕ちた天使―アザゼル』の名前で作品社から出版された。そして今年2015年、刑事ファンドーリンを主人公とする「ファンドーリン・シリーズ」の、『アザゼル』に続く第2作目にあたる『トルコ捨駒スパイ事件』の翻訳出版に合わせ、従来の訳文に全面的に手が加えられ、題名も『ファンドーリンの捜査ファイル 堕天使(アザゼル)殺人事件』と改められて岩波書店より再登場した。

 

この『堕天使殺人事件』と『トルコ捨駒スパイ事件』の翻訳出版によって、すでに岩波書店より刊行されていたシリーズ第3、第4作の『リヴァイアサン号殺人事件』『アキレス将軍暗殺事件』を含めたファンドーリン・シリーズ最初期の4作品がようやく時系列を追える形でそろい踏みということになった。本国ロシアではすべて同じ1998年に発表され、アクーニンを現代ロシア文学界のスターダムへと一気に押し上げたこれら4作品は、一口にシリーズものと言ってもそれぞれ舞台も違えば語り口も違う、まったく異なった特徴を個々にそなえた作品であり、どれから読んでも問題なく楽しめるつくりにはなっている。とは言えやはり『堕天使殺人事件』にはその後の作品で重要な役回りを演じる人物たちが数多く登場するし、またなにより、少々頼りない「青年」ファンドーリンから一風変わった性格の持ち主である切れ者の「探偵」ファンドーリンがどのようにして誕生したのか、その経緯を描いた作品でもあるので、これからアクーニンを楽しもうとお考えであれば、ぜひ1作目から順にひも解かれることをおすすめしたい。二作目の『トルコ捨駒スパイ事件』で、ファンドーリンが露土戦争の白煙立ち込めるトルコやブルガリアで一大推理活劇をくり広げるのも、『堕天使殺人事件』で明らかにされるある事実が直接の発端となっている。

 

1876年のロシアを舞台とする『堕天使殺人事件』、その物語はある日のモスクワの公園、貴族の少女とその家庭教師の目の前で白昼堂々決行されるひとりの青年の拳銃自殺によって幕を開ける。主人公エラスト・ペトローヴィチ・ファンドーリンは、もとは裕福な生まれながら父親が事業に失敗して零落、さらには19歳になる年に両親と死別して孤児となり、20歳となったいまは14等官の文書係としてモスクワの警察署特捜部に勤務する、まだあどけなさの残る青年だが、ようやくめぐってきた活躍の場とばかりにこの奇妙な事件を追い始める。捜査の途上でファンドーリンは、素性不明の絶世の美女アマリヤや、イギリスの篤志家レディ・エスターが設立した養護施設「エスター館」の関係者たちに出会い、彼らを中心に渦巻く壮大な陰謀事件のただなかへと足を踏み入れていくことになる。

 

こうしてテンポのよく進むミステリーのプロットの合間には、ロシア文学をかじったことがあるものなら思わずにやりとしてしまうような文学的遊戯のタネが仕込まれており、それが本作の魅力のひとつにもなっているが、それらの仕掛けについては訳者あとがきでいくつか種明かしがなされているので解説をくりかえすことはしない。ここではそれとは別に、あとがきでは触れられていない作品の背景について補足的に説明しておこう。

 

本作にはファンドーリンに彼の上司が、ドストエフスキーの『悪霊』を読んだかどうかたずねるシーンが出てくる。カリスマ的な青年に感化された若者たちが秘密結社を組織して革命思想やラディカルな宗教論に熱狂し、ついには内部分裂を起こし転落していくさまを描いた『悪霊』が雑誌「ロシア報知」に発表されたのが1871~2年であり、ファンドーリンたちにとってはまさに同時代の人気作家の新作だ。19世紀後期のロシアでは、1861年の農奴解放をひとつの象徴として、リベラルな思想の伸長がいちじるしかったのだが、そうなると今度は逆にそれに抗する反動勢力も力を強める結果となり、一言で言って非常に不安定な世情を呈していた。ロシア皇帝アレクサンドルⅡ世が専制政治を打倒しようとする急進派に暗殺されたのが1881年、『堕天使殺人事件』の作品世界の5年後である。

 

アクーニンはこうした時代状況を巧みに作品に反映させ、たんなる推理小説としてだけではなく歴史小説としての厚みも持たせることに成功している。たいていの推理小説には、犯人が自身の犯行をあばかれたあと、犯行の動機を滔々と開陳するお約束のようなものが存在していて、『堕天使殺人事件』もその例に漏れていないが、おもしろいのは本作で明かされる動機が一個人の私怨や利害にまつわることがらではなく、もっとスケールの大きな、ロシアをはじめとする各国の政体を揺るがしかねない陰謀であるというところだ。『堕天使殺人事件』は「探偵vs犯人」のミクロな頭脳戦であるのみならず、警察という「体制」側の人間であるファンドーリンと、それを否定し撹乱し蝕もうとする勢力、「テロリスト」たちとの政治的な戦いという別の層も持ち合わせている。いささか脱線するが、シリーズ二作目の『トルコ捨駒スパイ事件』で、ファンドーリンと並ぶもうひとりの主人公である「進歩的」少女ワーリャは、ファンドーリンが警察組織の人間であることを知って不信感を隠さない。その後半世紀と生き延びられない運命にあるロシア帝国の揺らぐ屋台骨を支えるファンドーリンは、ワーリャにとって単純明快な善のヒーローというわけではないのである。

 

こうした背景知識をもとに読んでみると、アクーニンの推理小説が一読してすっきりとかたのつく勧善懲悪の物語には見えなくなってくる。『堕天使殺人事件』で(あるいは『トルコ捨駒スパイ事件』でも)ファンドーリンが最後に直面する、国家という権力に相応の力でもって対抗しようとする悪人たちの言い分にどこか共感を覚えそうになるのは、上に説明した19世紀ロシアの複雑な社会事情を、また強靭な批判精神を持つひとりの「悪人」として、ロシアの現政権に対する批判的な発言を敢然と続ける作者のリベラルな知識人としての一面を、知っているからかもしれない。

 

『堕天使殺人事件』の文学史的な位置づけについても付言しておこう。ロシアの著名な批評家クーリツィンは、現在まで15作にわたって続く人気シリーズの記念すべき第1作目である『堕天使殺人事件』を、1990年代ロシア文芸の必読書10冊のうちに数えいれている。クーリツィンがほかに挙げる顔ぶれを見てみると、日本でも近年とみに知名度の挙がってきた感があるソローキン、ペレーヴィン、ウリツカヤ、トルスタヤなど、どちらかといえば「ハイブロウ」な作家たちが並ぶ。この列に混じると、みずからをあえて「大衆作家」と位置づけるアクーニンの、純粋に娯楽性を追求した本作はやや異色に見えなくもない。だがやはりアクーニンはソ連崩壊後のロシアを代表する作家のひとりであって、日本文学者やロシア史家などアカデミシャンとしての顔も持つ彼の作家としての活動には、現代ロシア文学の流れを決定的に方向づける非常にしたたかな戦略が隠れていることを指摘しておかねばならない。

 

『堕天使殺人事件』のあとがきで訳者はアクーニンを、それまで自明とされてきたいわゆる「純文学」と「大衆小説」のあいだにある垣根を壊し、中間的なジャンルを打ち立てることによって、現代ロシア文学に新たな風を吹き込んだ作家として紹介している。こうした視点に関連して、本作の帯にも文章を寄せている沼野充義はかつてある論考で、ソ連崩壊後のロシア文学界で「高い」文学と「低い」文学のあいだにぽっかりと空いていた「すき間(лакуна)」を埋めた作家としてアクーニンとペレーヴィンを例示し、日本における村上春樹吉本ばななの役割との比較を試みている。そういえば、村上春樹の『羊をめぐる冒険』がロシアではじめて出版され一躍人気を博したのが、アクーニンの作家デビューと同じ1998年であった。偶然と言えば偶然に過ぎないが、1990年代にロシアの文学界に新鮮な空気が入り始めていた事実を端的にあらわしていると見なせなくもない。クーリツィンもまた、アクーニンが自身を「すき間」作家と呼び、あえて「偉大でない」作品を書くことでほかにない独自の手法を確立していったことを評価している。

 

それまでのロシアでは作家は「魂の技師」とまで呼ばれ、ただの物書きとしてではなく社会全体を先導するオピニオン・リーダーとしての役割を期待されていた。その一方で、SF、ファンタジー、推理小説、恋愛小説などのジャンル小説は一段低く見られており、良き作家が精力を傾ける対象とは見なされていなかった。こうした状況にあってアクーニンは、ロシアの文学的伝統を踏まえつつも娯楽小説の手法を自作にぞんぶんに取り入れ、ロシア文学の硬直した状況を活性化する。現代ロシアで、たとえばソローキンが『ロマン』や『青い脂』における古典作品の文体模写によって唯一ありうべき公式の文体を破壊しようとし、あるいはペレーヴィンが『チャパーエフと空虚』でファンタジー的な手法によってソ連共産主義の呪縛をかなぐり捨てようとしたのと同じことを、アクーニンは推理小説と古典文学の融合という形でおこなった。彼らの作品が互いに似通っているとはとても言いがたいが、それでも彼らの文学的営為には、自国の文学にまとわりつく旧弊なイデオロギーを骨抜きにし、新しい時代の流れへ沿うように作り変えてしまおうという強い意志が共通して感じられる。

 

それにしても、こうして堅苦しく作家の知的な戦略についての解説を書けば書くほど、これはどうにも小説そのものを楽しむのに適した態度とは言えないのではないかという思いに駆られる。いくども強調しているように、本作は一義的にはあくまでもエンターテインメント作品なのであって、まずはなにも考えずに物語の世界に身をひたせばいい。歴史・文化に関する該博な知識とエンターテインメント性をうまく融合させているところから、アクーニンをイタリアの高名な記号学者にして大人気作家のウンベルト・エーコに比する声もあるようだ。もっとも評者のごく個人的な印象としては、19世紀という時代設定、警察組織を軸に展開するストーリー、歴史上の実在の人物をうまくフィクションに織り込む手法といった符号から、遠い昔に読んだ山田風太郎『警視庁草紙』などがなつかしく思い起こされたのであるが。

 

ちなみにこの『堕天使殺人事件』、本国ではその大変な人気ぶりにテレビドラマにもなったということで、アクション映画さながらのはげしい映像が脳内に再生されんばかりの格闘シーンもふんだんに盛り込まれた本作(クーリツィンはそのものズバリ「ハリウッド的」と評している)であるから、そのドラマ化されたものもぜひ見てみたいという気がする。だがまずは、『堕天使殺人事件』の本文に織り込まれた19世紀文学の香りと、現代ロシア文学的な卓抜な技巧を、こなれた翻訳によって楽しもうではないか。「重い・暗い・長い」と避けられがちなロシア文学への入り口としてもうってつけだろう。

『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』書評②

『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』書評2つ目(1つ目はこちら)。

 

ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン (講談社選書メチエ)

ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン (講談社選書メチエ)

 

 

2つ目のこれについては掲載書誌名は(なんとなく)伏せますが、商業誌ってわけじゃないし、いずれネット上で全文公開されるらしいし、まあOKだろうと判断して転載します。OK!!!

 

【以下書評本文】

ヨーロッパ、とりわけフランスから輸入されたポスト構造主義の難解な哲学が一大ブームを巻き起こしたのも今は昔、「現代思想」や「ポストモダン」といった言葉がどこかしら古めかしさを帯びてしまっている現状は否めない。そんな今になって、日本と同様、西欧の先進的な思想哲学を吸収する側にあったロシアにおけるポストモダン思想の諸成果を整理し紹介することにどれほどの意義があるのか、いぶかしむ向きもあるだろう。しかしここで評者は、本書こそが「現代思想」の枠組みの中で今可能な、最先端の試みのひとつであると主張してみたいのだ。 

 

とはいえ、そうした主張を展開するにあたっては、本書がその論の奇抜さで目を引こうという類の本ではないということはことわっておかねばならない。著者は主に「雪どけ」期終焉の年と目される1968年以降に活躍した、20にものぼる思想家たちの著作を丹念に読みこみ、それらの背後に共通して潜むロシアにとっての「大きな物語」、すなわち「わたしはXにとって他者である」というテーゼを導出する。これは、かの国の政治や文化を日ごろから観察してきた人間にとっては、これまで抱いてきた素朴な実感を裏打ちしてくれたかのような、非常にすんなりと受け入れられるアイデアである。ためしに「X」に「権力」を代入してみよう。すると20世紀、ソヴィエト政権下の全体主義的な圧力に「他者」として立ち向かい、当時の西側諸国でも大きな支持を集めたソ連の知識人たちの姿が浮かび上がってくる。本書でもっとも大きな紙幅を割いて論じられる記号学者ユーリー・ロトマンや、彼と世代の近い哲学者メラブ・ママルダシビリなどにしても、たとえば同時代にソルジェニーツィンがそうしたように政治的な闘争の表舞台に立ったわけではないものの、「他者」不在の全体主義的機構としての性格を強く持っていたソヴィエト社会にあって、そこに組み込まれきらない自由で能動的な主体を構築すべく、各々の領野で思索を重ねた様子がうかがえる。そしてこうした姿勢は彼らの下の世代、西欧のポストモダン思想をより積極的にロシアの文脈に移し替え、それぞれに独自の理論を築いた思想家たちに受け継がれていったのである。

 

ただし評者が本書の試みを先端的とみなすのは、ロシアの思想家たちが西欧の思想を参照しつつ、欧米のリベラルな価値観から見て歓迎される知識人像に回収されていく様子が描かれるからではもちろんない。話はむしろその逆、ロシア社会において、「わたしは権力にとって他者である」という物語が、「わたしは西側にとって他者である」という物語へとシームレスに遷移していくときの理路が、家父長制や植民地主義といった旧弊なイデオロギーに則った世界観の不安定さ、不正義を暴露してきたポストモダン思想そのものがはらむ両義性をえぐりだしているように評者の目には映ったからなのだ。

 

そもそも著者が本書を説き起こすにあたって注目したのが、選挙不正に端を発する2011年モスクワでのデモ(権力に対する「他者」性の発露)と、2014年のウクライナ危機(欧米諸国に対する「他者」性の発露)であった。自国の強権政治を糾弾する民主的な運動と、世界の境界線を実際の流血を伴って文字通り揺るがしたウクライナ侵攻を、同じ「他者」の思想の反映として語ろうというのは、議論としてやや大味にすぎるかもしれない。しかし、自己を包摂し飼いならそうとしてくる上位秩序に対する反抗の精神、まつろわぬ「他者」であろうとする姿勢が、西欧由来の民主主義制度を希求しかつ反欧米的な風潮を形作っていくのが現代ロシアの動かしがたい現実なのだとすれば、すくなくとも人文学の視座から行うべきは、それを西欧的価値観に照らして採点し裁断することではない。仮にロシアでのポストモダン思想の受容が、その原義を十分に汲みつくさない「誤読」であり、「脱構築というより二項対立の再導入へとしばしば向かう」(37頁)反動的な性格を持つものだとしても、思想の流れを屈曲させる強烈な磁場がいったいどんな性質を帯びたものなのか、目に見える歪みから間接的に理解することが必要となる。

 

この「他者」の物語の横滑りとでも呼ぶべき現象については、本書中でいくつも報告されている。ロトマンが初期の純理論的な学究活動から徐々にロシア文化の記号論的分析へと活動の領域を移し、「生の構築」と呼ばれる主体性の理論を形成したのち、20世紀初頭に亡命右派知識人の間で発生したユーラシア主義にも似た、民族的・文化的多様性を包含するロシアという国の優越を説く帝国主義的な「記号圏」のアイデアに傾倒していったことや、ミハイル・エプシテインが、西欧文化の後追いによって形作られたロシアの文化は、その実体のないシミュラークル性によって西欧に先んじて「ポストモダン」的であったと主張する際の、ロシアの特殊性を強調するポストモダン理解などがそうである。ここでは抽象的な「他者」の思想がロシアという存在によって具体性を獲得し、ナショナリスティックな色調を付け加えられている。

 

こうして見てみると、現代ロシアの主要なイデオロギーのひとつと考えられるネオ・ユーラシア主義などもまた、本書で説かれる20世紀後半のロシア思想史の流れと関連付けて考えられるのではないかと思えてくる。本書に言及はないが、1950年代から地下で活動を開始し、現代ロシアを代表する作家・思想家に多大な影響を与えた重要人物にユーリー・マムレーエフがいる。1960年代の彼は、当時の社会の全体主義的な風潮に疑義を呈し、インド哲学を下敷きに「中心」ではなく「周縁」を、「普遍」ではなく「特殊」を志向し個人の価値を謳いあげる実存主義風の哲学を練り上げた。1931年生まれのマムレーエフの手によって、本書が語る思想史の裏側、モスクワのアパートの一室でひそかに胚胎した、「周縁」から「中心」を飲み込もうという思想は、やがて現代のアレクサンドル・ドゥーギンらウルトラ・ナショナリストへと引き継がれ、西欧的近代に対する逆襲の理念として結実することとなる。ここでもまた、否定性、批判精神の別名である「他者」の概念が、ロシアという個別の場所によって受肉する様が見て取れる。

 

このように「他者」性がロシアという特定の場所に固定されてしまうことを著者が危惧するとき、対抗する案のひとつとして提示する興味深い例に、オレグ・アロンソンの「ボヘミアン的共同性」がある。権力への「抵抗」ではなく「不服従」を説き、なにもしないこと、「無為」であることに積極的な意味を見出すこの思想自体は、流動性、遊戯性を旨とするポストモダン思想の理解として正統と思われ、また「徒食」が社会に対する反抗の一形態として実際に機能していたロシアの伝統を受け継いでもいる点で、ロシア的ポストモダン思想が醸す妙味といってよく、現代の日本にも適応可能な強度を持つ思想だろう。しかし実は、権力と真正面から切り結ぶのではなく、上からの圧力を社会の片隅ではぐらかし続けるマムレーエフのような人物たちの「ボヘミアン」的性格が、すでに批評家ゲニスとワイリによって指摘されていた(なるほどマムレーエフの小説には、登場人物たちがモスクワの郊外でただ酒を飲んでしゃべったり地面に寝そべったりと、まさしく「無為に」過ごすシーンがよく出てくる)のであり、そうしたふるまいの一帰結が「他者=周縁」としてのロシアを聖化し祭り上げる国粋主義的な思想であることを目にしてしまったわれわれとしては、アロンソンの理論にも諸手を挙げての賛同はしづらくなってくる。ここへきて、ロシアにおけるポストモダン思想とナショナリズムの関係は、一筋縄ではいかない混みいった様相を呈してくるのである。

 

スラヴォイ・ジジェクは2007年のある論考で、イスラエル国防軍ジル・ドゥルーズ千のプラトー』を軍事教練に応用しているというエピソードを紹介する。ここでは人文学は役に立たないどころでなく、むしろ発案者の意図を大幅に超えて過剰に役立ってしまっているのだが、ジジェクによれば、ある理論はそれが創出された当初の文脈からひきはがされ移植されるのを耐え抜いてはじめて普遍性を獲得するのであった。ここで話をイスラエル軍にとってのドゥルーズから、ロシアにとってのポストモダン思想へと大胆にずらしてしまうことは許されるだろうか。つまり、ポストモダン思想がロシア的文脈に移し替えられ「国産化」した末に、欧米中心の世界秩序の現前性に大きな疑問符を投げかけるための力となった今こそ、ポストモダン思想が普遍性を獲得したことを認めてもよいのではないか、という問いを発することが、である。

 

もちろんこれは皮肉であり、同時に思慮の浅い「逆張り」でもあるかもしれない。しかし、ポストモダン思想が始めからこのような帰結へと至る道〈も〉用意していたのではないかと疑ってみることは重要である。ポストモダン的発想の世界的な浸透が「大きな物語」の亡霊を招来するというのはたしかに矛盾であるが、この明らかな矛盾に矛盾として向き合うことを本書は要請している。自己を「他者」と規定するロシアという否定性を、どこまで織り込んで世界は思考していけるのだろうか。

【書評ここまで。以下補足】

 

『篝火』のほうの原稿を書き終え、ほっとして正月気分でお茶を飲んでいたところに、いきなり予想だにしない方向から書評書かへんか?ときたので驚いて、しかしこれこれこういうアレでもう書いちゃったんですけどと答えると、ほんならまったくべつの内容で書かんかいと言われた。これが同じ本の書評をひと りで2つも書くという事のざっくりした顛末になるでしょうか。そういったわけでこちらは書評①との内容の重複を避けるため、本書の要約紹介というよりは、 ぼく自身の問題意識を前面に押し出したレポートみたいになってます(しかしまあ、4000字書いていいとなるとずいぶん違う)。

 

問題意識。

 

ぼくがこの本を読んでいる間中ずっと考えていたのは、日本の人文学が「先進国」からの知識の輸入で成り立つモデルっていったいいつまで続くんだろう?という ことでした。昨今「多様性」などという言葉はどんな口からも飛び出るようになりましたが、そうはいってもそれ自体は欧米発信の、欧米で大事にされている思考のモデルとしての「多様性」ということであって、すくなくとも人文学の分野は、結局のところ米英仏独あたりから渡来する、明治期から100年以上たってもあまり多様化したようには見えない「先端」的な知識の引き写しで成り立っているという事実に大きな変化があるようには見えない。

 

その点から見ると、ロシアという国の立ち位置はたいへん微妙ですね。たしかに明治以降の日本の学術体系のなかでは、いちおう学ぶべき主要数か国のうちに数え られ、大学のカリキュラムなんかでも、たとえば第2外国語としてロシア語がそこそこ(あくまでもそこそこ)メジャーな選択肢であり続けていたりもするので すが、そうはいってもロシアは日本と同じくヨーロッパの「先進」文化の影をずっと追い続けてきたみたいなところがあるし、共産主義ユートピアの夢もソ連と 一緒に崩壊して早や20年以上の今となっては、かろうじてドストエフスキートルストイあたりが教養の砦として苔むしたその姿をとどめているくらいで、かの国を知的「先進国」として、知の「鑑」として仰ごうという勢力はすっかり鳴りを潜めているといった印象を個人的には受ける。

 

そして現在ではネットを中心として、ロシアはなにもかもしっちゃかめっちゃかでカオスな国という扱いで、ロシアの文化に好意的な人でもそれをせいぜい共産趣味・ミリタリーなどサブカルの一分野に切り詰めて、毒にも薬にもならない鑑賞物、悪くいってしまえば「イジリ」の対象としてのみ楽しんでいるような雰囲気もあるのではないかという気がしないでもない。

 

それではさて、そんな「最先端」から転げ落ちたかに見えるロシア文化を税込1836円も出してマジで学ぶことで、まことの「多様性」への扉は我々の前にひらかれるのか?

 

ひらかれる、とぼくは思う。本書を読むと、ロシアの思想・文化を学ぶことは単なる無害な趣味の次元にとどまるものではない、ある意味では危険な、いわゆるひとつの「アクチュアリティ」(!)をもった営みなのだということがよくわかってくる。ここには海外の事物をすぐれたお手本として恭しく押しいただくというのでも、珍奇な見せ物として消費するというのでもない海外文化受容の可能性がある。ロシアを「鑑」ではなく「鏡」として見ることで日本の現状をよりよく見 通すことができるのみならず、知識の「輸入/輸出」「先進/後進」という図式自体が揺るがされるんじゃないか。

 

言い換えれば、なぜ日本では毎年のように「ドイツ観念論」やら「フランス現代思想」やらの入門書は大量(ってほどでもないかもだけど)に出るのに、「ロシア現代思想」「韓国経験論」「ベトナム哲学」は学ばれないのか?そんなことをぼくは考えてこの本を読んだんだということになるでしょうか。いや、べつにぼくだって、前者が好きで読んではいるわけなんだけども。

 

正直この本は、200ページそこそこの分量にかなりの情報量が詰め込まれているので、ところどころ議論が荒い部分があるとは思う。思うのですが、この本はあくまでも地域研究が持つ普遍性をうったえるために(あるいは「普遍」が 持つどうしようもない「特殊」性を問い直すために)放たれた鏑矢であって、問題はここからなにを受け取り、どう後ろに続くかなのだろう。そうした思考の触媒として本書はロシアに興味がある人のみならず、人文学の分野全般に興味のある人が手に取るべき本だと思います。

 

そういった意味でぼくは本書を勝手にロシア思想版『構造と力』とか呼んでいる。ほんと勝手だなあ。

『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』書評①

昨年12月、講談社選書メチエより乗松亨平『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』という本が出ました。出たよね?

 

ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン (講談社選書メチエ)

ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン (講談社選書メチエ)

 

 

日ごろからソ連や現代ロシアの文化に興味をもつ者として、ホイきたとばかりにすぐさま購入し、おもしろく読んでいたところ、ひょんなことからこの本の書評を立て続けに2つも書くことになりました。なにがどう「ひょん」なのかはくわしく訊かないでおいてほしいのですが、せっかく書いたことだし、誰が読むのかわからない当ブログにも一応放流しておくことにします。ネットの広大な海を泳ぎ回って、いつかでかい鮭になって帰ってくるかもしれない。

 

1つ目は『篝火』という同人誌に寄稿したものです(転載の許可はもらった)。基本的には翻訳詩&創作詩がメインの冊子なんだけど、ぼくは詩はからっきしなので書評という形で参加しました。2月に出たこの第4号、紙媒体は発行部数が少ないので手に入れづらいかもしれませんが、いずれはKindle化される予定らしい。ちなみに、なんと1~3号にいたってはすでにされているという有り様なので、気になる方はチェックしてみてはいかがかな。

 

 

はい、では以下がその書評です。書評というものを書き慣れないせいで、対象書籍の内容を過不足なく紹介せねばという義務感を勝手にしょいこみ、また書いてみると2000字という縛りが案外きつかったということもあって、評というより単なる要約になってしまっている気もしますけど、ま、いいじゃない?

 

【以下書評本文】

本書で論じられるのは20世紀ロシア/ソ連の思想哲学における「他者」の問題であり、ロシア/ソ連文化論という文脈にあって「他者」を語ることは、政治や宗教における「全体主義」的構造、すなわち「他者」不在の世界について語ることと切り離しがたいネガ・ポジの関係を取り結んでいる。ロシアにおける「他者」と「全体主義」のこうした複雑な絡み合いを、現代の思想家たちの見解を紹介しながら掘り下げていくという点で本書は、桑野隆『バフチン全体主義』や貝澤哉『引き裂かれた祝祭』の後継と見なすべき著作だが、桑野・貝澤の論の比重が20世紀前半のバフチンの文学論やロシア・アヴァンギャルドの芸術などの批判的見直しに割かれたのに対し、本書で分析の対象となるのは、モスクワ・タルトゥ学派の領袖Y・ロトマンの文化記号論を皮切りに、ロトマンとほぼ同世代の実存主義系哲学者M・ママルダシビリの記号論批判、ママルダシビリの弟子筋にあたるV・ポドロガやM・ルイクリン、M・ヤンポリスキーらの「余白の哲学」、さらにはソッツ・アート、コンセプチュアリズムといった現代アート等々、「雪どけ」期の終焉1968年以降の文化潮流である。

 

本書冒頭の主要人物リストには現代ロシアの枢要な哲学者・批評家・芸術家の名前が20も挙げられていて、彼らの多様な思想を串刺しにして論じる方策として著者はまず、それらの思想の背後に「私はXにとって他者である」という命題がいわゆる「大きな物語」として潜んでいるという仮説を提示する。これによって、自己をなにかの「他者」と定位することによってはじめて自己が自己たりえるというロシア独特のねじれた主体性の歴史をあぶりだそうとするのである。

 

分析が進むにつれあらわになっていくのは、ポストモダン思想の内部ではとうの昔に融解したかに思われた「権力/大衆」、社会規範の「内/外」といった二元性を克服できない、というよりむしろ積極的に保存しようとするロシアの知識人の姿だ。もちろん、権力という「X」に対して大衆や芸術家が十全な「他者」であったことなどかつて一度もなく、実は彼らこそが権力を下支えし補完してきたのだというA・ユルチャクやB・グロイスの見解は本書においてもつねに念頭に置かれる。しかし本書の見どころは、そうした皮肉な事実が暴かれてなお権力から離れた自律的な「主体」の確立をあきらめない思想家たちのあの手この手の工夫にある。「雪どけ」の時期を境にそれまでの純理論的な学究活動から、記号論をロシア文化の実地の分析に適用するスタイルへと転回したロトマンは、19世紀のプーシキンやデカブリストたちが、文学や社交界の規範や建前を真っ向から否定するのではなくむしろそれらを「遊戯」的に、「演劇」的に、次々と使い分けることで、逆にそうした規範によっては汲みつくされない生身の「主体」を能動的に浮かびあがらせていったと論じ、のちに「生の構築」と呼ばれることになる思想を創出した。対してママルダシビリは、記号論を素地とする「生の構築」論に、思考を言語やその他の記号体系の中に閉じ込めようとする全体主義的な匂いをかぎとり、思考の「生きた運動」を称揚する。

 

続く世代の思想家たちは、記号システムの全体主義的性格を認識するかたわら、言語で思考しえないシステムの「外部」を素朴に実体化(自然化)してしまうという陥穽にもはまらないよう注意を払い、ロトマンやママルダシビリが「爆発」や「運動」という動きの比喩でヒントを示した、権力の内にも外にも固定されない唯一可能な「他者」性を獲得するためさらに知恵を尽くす。ポドロガがドストエフスキーの小説に、ヤンポリスキーが映画のフィルムの内部に見出す非言語的「身体」、抵抗ではなく不服従によって社会規範をハックするO・アロンソンの「ボヘミアン的共同性」などがそうしたアイデアの例として挙げられている。権力との共犯関係が避けがたいことを自覚したうえで、「積極的な自由」と「消極的な自由」のあわいに不安定に見え隠れする第3の道を選び取り、責任ある「主体」をなんとか救い出そうとする姿に、かつてデリダが「脱構築は正義である」と語ったときの「正義」の部分、ポストモダンの思想が持つ倫理的な側面が色濃く浮き出ているのがロシアらしさと言えるだろうか。

 

こうして権力に取り込まれきらない残余を微かにでもつかもうとする知的な営みには、全体主義の圧力を克服すべく格闘を続けてきたロシアの知識人たちの矜持がひしひしと感じられる。だがその一方で、権力に疎外された「外部」、反抗する「他者」としての自己の存在を無邪気に信奉してしまうとき、そのみずからにとっての「他者」に対する想像力はおのずと欠落する。ウクライナ危機でロシアが見せたふるまいは、自己を欧米の規範の純粋な「外部」と措定する「他者」の思想が極限まで先鋭化した末の出来事であったと見なすこともできる。

 

本書で著者は、自己を規定するために必ず敵を必要とする「私はXの他者である」という、ロシアのアイデンティティの根幹に関わる物語の危うい魅力を批判的に考察した。そしてそのうえで、その批判の矛先を日本にも向けることを控えめにではあるが読者に要請しているように映る。本書は柄谷行人浅田彰東浩紀椹木野衣などの日本の批評家たちの論を折にふれ参照することで、一種の比較文化論としても読めるようになっており、ロシアと同じく、西欧に一歩遅れて近代化を成し遂げたがゆえの歪みをときに露呈する日本の現状を省みるための有効な手段として、ロシア文化論を提示しようという野心が伝わってくる。現在の日本にはロシアで日々育まれる思想を輸入し「鑑」として仰ごうとする人間は少ないかもしれない。しかしひょっとするといま我々に必要なのは「鏡」としての役割を担う思想であり、ロシアという国はそのもっとも適当な供給源たりうるのではないか、本書を読むとそう思えてならない。

【書評ここまで】

 

1つ目は以上。この本を読んでの素直な感想としては、比較的好き放題書いた2つ目の書評を読んでいただくほうがよいかと思います。いやまあもちろん、書評なんかすっとばしてこの本自体を読んでくださればそれに越したことはないのですが。

君は加賀百万石がいったいどんなものか知っているのか?知ったうえでそういう口のきき方をするのか?【後編】

君は加賀百万石がいったいどんなものか知っているのか?知ったうえでそういう口のきき方をするのか?【前編】

 

 一夜明けて7日。朝いちばんに長町武家屋敷跡。前日の春のような陽気からは少し冷えこんで、ぼくとしては気持ちがいい。

 

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ここで野村家武家屋敷跡というのを見学。この家の庭がおもしろかった。

 

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写真だとちょっとわかりづらいのだが、家屋から見て手前と奥のほう(写真では左と右)でけっこうな高低差のある立体的な造りになっている。こういう凝った構造の庭を見たのははじめてで、眺めているとなんだかジオラマの中にでも入りこんだかのようなわくわく感を覚える。池に泳ぐ鯉たちも「満足している」とのことであった。

 

つづいては妙立寺。道を間違えて裏口から入る。

 

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正面。

 

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見学に事前予約必須という時点でなんなんだと思っていたが、押し寄せる団体の観光客からひとり1000円(1000円!?)取って、おおぜいのガイドたちがびしばしとさばいていくという、寺としてはあまりに資本の論理にまみれたその姿にぼくは涙をこらえきれなかった。

 

しかしなるほど内部は見ごたえがある(撮影は不可)。加賀藩三代目藩主が、あんまり豊かな加賀藩に幕府が目をつけて襲ってくるのを危惧して(嫌味な理由だ)、いわば金沢城の出城として建築させたこの寺は、寺にあるまじきレベルで戦闘準備万端で、落とし穴だの隠し扉だの、攻め来る敵を下から槍で突き刺すための階段だの、あるいは切腹用の隠し部屋だのと、非常に入り組んだ構造をしているので、案内がないときちんと見て回ることは難しい。ちなみにわれわれの班のガイドさんはとても若い女性だったのだが、はまったらすごく痛そうな罠についてかわいらしい声で淡々と解説していくのがなんかおもしろくて笑ってしまった。

 

妙立寺近くの西茶屋街で朝飯代わりに豆腐アイスを食べ、昼食をとるため町の中心部の市場へ。 月曜日とは思えない人手で、大変なにぎわい。

 

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寿のやつーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

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一緒に出てきたもずくの味噌汁とあわせてたいへんうまい。

 

しかしのんびりと寿司を食っている場合ではない。1時半からの酒造見学の時間が迫っているのである。急ぎタクシーで谷内屋酒造へ。「やちや」と読む。

 

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この幼児が「酒」をあらわしているらしいのだが、幼児に「火入れ」をする意味がわからない。

 

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酒造を出ると道ですれちがったおばちゃんに「あんたら酒造の見学に来たんかい!?」と声をかけられる。ああそうさ、おれたち見学に来たのさ!!!!!!!

 

4時半の新幹線に向けて、いよいよ時間は切迫している。行きはタクシーだったので問題なかったが、帰りのバスはどれに乗ればいいのか迷いに迷う。近所の高校で入試があったらしく、いろんな制服の中学生たちがわらわらしている。彼らもどのバスに乗ればいいのかよくわかっていない。バスって地元民じゃないとわかんないよね。

 

どうにか金沢の中心部にもどり、さいごに東茶屋街。午前中に行った西茶屋街に比べると、こちらのほうが観光地としては栄えている。たしかにきれいな家並み。

 

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古いお茶屋の内部を見学したのち、喫茶店でおやつ。

 

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これにて旅程は終了。帰りの新幹線でビールを飲みながらだらだらと帰る。北陸新幹線はトンネルが多く、よく携帯が圏外になる。

 

おみやげ。

 

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君は加賀百万石がいったいどんなものか知っているのか?知ったうえでそういう口のきき方をするのか?【前編】

「一度くらい酒造見学というものをしてみたいんだよね」という話を友人にしたら、じゃあ行こうよととんとん拍子に話がすすみ、3月6,7日、石川県は金沢市にちょっとした旅行をした。どうでもいいがぼくは基本、行きたいといっているところには行きたいといっているだけで行くことはないので、いざ行くことになってしまうととたんに腰がひける。よってスケジュールの作成は友人に丸投げである。

 

6日、朝8時半の新幹線で金沢へ。11時過ぎに到着。日月と雨の予報で心配していたが、とりあえずはくもり。結果としては全旅程をとおし、小雨がぱらつくかぱらつかないか程度で天気はもってくれたのでよかった。

 

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駅前のよくわからないでかい門。わけのわからないでかい物体で客を威圧するのは観光地の悪い癖のようだ。

 

まずは兼六園。今回はもうベッタベタに観光ルートしかまわっていない。今回の旅行を主体的に立案した友人がベタな人間だからであり、ぼくがそれを許す受け身な人間だからである。

 

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金沢ではいたるところで着物を着た観光客を見かけた。着物を着て金沢をめぐろう!的なサービスがあるのかもしれないし、そんなサービスはないのに勝手に着てきているのかもしれない。ぼくにはなにもわからない。

 

兼六園に隣接する金沢城址。

 

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もちろんこの建築物は昔からそのまま残っているわけではなく、金沢大学を郊外にどかしたあとに再建されたもの。展示されている年表を見るとわかるのだが、金沢城、落雷だなんだで歴史上とにかく燃えまくっている。次燃えたらそのときはアルミとかで作り直したほうがいい。

 

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とりあえず観光を優先した結果、朝からおやつのようなものしか口にしていなかったので、ここでものすごい空腹に襲われる。しかし観光地周辺には甘味処ばかりが目についてあまりよいレストランがない。ふたりふらふらと市役所のある通りを歩く。甘味処しかない。

 

3時近くなり、絶望したわれわれに救いの手を差し伸べてくれたのは、金沢カレーを提供することでおなじみ「ターバンカレー」本店であった。おなじみではない。

 

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うまい!!!ホスピタリティが高い!!!!!!ありがとう、ぼくらのターバンカレー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

ひとごこちついて、つづいては金沢21世紀美術館コンテンポラリーアートの企画展。「コンテンポラリーアート」とは日本語にすれば現代美術であり、もう一度英語にすればコンテンポラリーアートとなる。

 

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まんなかの空隙は「空虚」「無」をあらわしているそうだ。写真撮影はできなかったがほかにももうひとつ、コンクリートの壁の中心に穴のあいた作品があり、それも"Void"をあらわしているのだと解説があった。現代のアーティスト、空虚を目に見える形で表現したがる者たちよ。

 

このあとは、酒造見学ではないが福光屋という酒造の販売店で飲みくらべをし、

 

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中心部に戻ってまた飲む。

 

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下は治部煮である。これは前から食べてみたかった。それなりにおいしかった。

 

朝から歩きづめで疲労。ホテルにチェックイン。部屋でシャワーを浴びてから、びみょうに食い足りない気持ちを残したまま眠りたくはない、ラーメン屋でも行こうということになったが、時間が遅いこともありおいしそうな店はことごとく閉まっていた。しかたなくたまたま見つけたラーメン屋に入ったところ、そのあとの記憶はない。これにて1日目は終了とあいなった。

 

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ホテルの部屋にて。味はふつう。

 

君は加賀百万石がいったいどんなものか知っているのか?知ったうえでそういう口のきき方をするのか?【後編】

そしてある日人類は「食」に復讐する

料理人は、たとえ素人であっても、しっかりした倫理的基盤をもたない意気地無しになる権利はない。誰でも好きなように食べればいいじゃないか、などという道徳的相対主義は、料理の道とは相いれないものだ。(ピョートル・ワイリ、アレクサンドル・ゲニス『亡命ロシア料理』沼野・北川・守屋訳、未知谷、2014、45頁)

 

「食べ物で遊ぶな!」とは、おちゃらけた少年少女時代をおくったみなさんのことだから、まわりの大人に一度や二度くらいいわれた経験があると思うのだが、いやしかし実はこれ、食全般にまつわる定言命法とでもいうべきものなのかもしれない。つまり「食」というものは、目の前にしかと存在して手や舌でこねくり回せる食材や料理などの物質的側面に限らず、それを言葉の上で語るだけだとしても、不真面目に取り扱うこと、それでもってふざけることを本質的に許されず、ある程度までは道徳的かつ保守的に向き合うことを要求される対象なのかもしれない、という。

 

さいきん食に関するエッセイ集をはからずも2冊並行して読み進めていたとき、まったく毛色のちがう両者ではあるけども、そこに共通するイデオロギーと、それに起因するほのかな息苦しさみたいなものを感じていた。

 

食べること考えること (散文の時間)

食べること考えること (散文の時間)

 
亡命ロシア料理

亡命ロシア料理

 

 

『食べること考えること』は、そもそも著者の『ナチスのキッチン』という本がおもしろそうだと思っていたところに、先に山形浩生の批判的な書評を読んで妙に納得してしまい、しかし読みもしないのに批判だけ聞くというのもフェアじゃないよなあ、けどこの本高いし厚いし、ということで、折衷案としてとりあえず軽めのエッセイ集を手に取ったという(どうでもいい)いきさつがあった。本書は京大で農業思想史を講じる著者が、いろいろな媒体に発表したエッセイやら書評やらインタビューやらを集めたもの。それぞれに長さも文体もまちまちで、通読してどうこうという本ではないので拾い読みという感じにはなってしまった。そしてやはり、山形浩生の批判は当たっているかなと思えてしまうところがある。個々のエピソードは非常に興味深く勉強になるのだが、著者の食や農に対する真摯さ、生真面目さが、それらの行き着く先をあらかじめ規定してしまっているような語り口は、しばしば文章を退屈なものにしていたと個人的には思う。

 

さいきんではエンタメの分野でも『もやしもん』なり『銀の匙』なり、あるいはよくわからない文脈でその名が知れ渡ってしまった『のうりん』なり、農業をテーマにしたものが多数世に出てきていて、こういう点では日本のエンタメの多様性みたいなものに素直に感心するのだが、とはいえどんなに娯楽作品として頑張っていても農を語るパートは強い説教臭さを帯びるというのは、もうどうしようもなく避けがたいことなのかもしれない。それが悪いことだといいたいわけでは決してないのだが。

 

ソ連からアメリカに亡命した著者らが、アメリカの食文化の低劣さをののしりながら祖国の食をなんとか再現しようと躍起になる『亡命ロシア料理』は、2人の文才がほとばしるパンチライン満載で、読み物としてのおもしろさは抜群である。1996年に翻訳が出て以来、知る人ぞ知るオモシロ本という感じの扱いだったらしいのが、すこし前にツイッターで誰かが紹介した一文がバズったことがきっかけで2014年になって新版が出るという、SNS時代のシンデレラ出版物。前から読もう読もうと思っていたのだが、やっと今になって手をつけた。ちなみに同著者の『60年代―ソヴィエト人の世界』もめっちゃおもしろい本なので、余勢を駆って翻訳出版どうでしょう、未知谷さん。

 

さて、文体とかテーマに関してはまったく性格を異にするこれら2冊(前者は著者の専門である農業の話が多いし、後者はグルメ・レシピ本的な性格をもつ)に共通するものはなにか。それはつまり、「料理」とは芸術であり、「食」とは美しいものである(あらねばならない)という思想だ。だから「食」の美的性格を損なう要素(それは農作業者を心身ともに酷使するトラクターだったり、あるいはマックのハンバーガーだったりいろいろだが)は徹底して批判され、読者は「食」に対して心から真剣に向き合うことを要請される。

 

さいきんぼくはかなり切実に、食べることぐらいしか楽しみのない毎日を送っていて、某グルメ雑誌じゃないが「食こそエンターテインメント」状態だ。だからそれぞれに良き「食」を追求してやまない上記2冊の著者の心情にはかなりの程度共感を覚えるのだが、しかし「食=美」とまで言われてしまうと、その等式の前でぼくは少々足踏みをせざるをえない。食べることってそんなに美しいことだろうか?という疑問が、または、仮に美しい「食」というものがあるとして、ペヤング松屋やマックは本当にそこに含まれないのだろうか?という疑問が、ぼくの不健康な胸肉のなかにぼそぼそとわだかまっている。

 

というわけで、実はこれまでの話は前振りにすぎず、今回紹介したいのはほんとはこっちの本である。施川ユウキ『鬱ごはん』。

 

 

世の中には食べることが全然楽しくない、食事のことを考えるのが苦痛、なるべく食事にお金をかけたくない、なんなら食べないですませたいというような心性が存在するらしいという事実に、ぼくはうすうす感づいてはいて、見て見ぬふりをしてきたわけだが、いざこうして目の前に突きつけられてみるとなかなかショックだったし、同時に面白味も感じた。

 
世にありとあらゆる趣向を凝らしたグルメ漫画があふれているこの時代にあって、この漫画に出てくるご飯はひたすらにまずそうで、就活浪人中の主人公も、ご飯をおいしく食べようという気がさらさらない。いま食う飯がどうまずいかを最悪の比喩によって懇切丁寧に説明し、読む者の食欲を奪っていく。アンチグルメ漫画とでもいうのだろうか、飯の摂取という人類の根源的営みに対する疑念・怨嗟をこれくらい前面に押し出した表現というのもそうそうない。食べることは楽しいと人はいうけれど、そしてそれに同意することにぼく自身もやぶさかではないのだけど、しかしそれはやはり、われわれ人間は生命活動を維持するために日に3食(別に1でも2でもいいけど)食べないことを許されないという前提を忘れた物言いであるかもしれない。食え、おいしく!食え、美しく! の大合唱とともに、口から目から鼻から食物をぎゅうぎゅうと押し込んでくる社会に恨みつらみを募らせる人間がいたって不思議ではない。
 
たしかにこの主人公は、まずいものをまずく食べることに邁進していて、おまえはなにがしたいんだと怒りすらこみあげてくるのだが、とはいえ彼はそうした営為の中にも一瞬の光明みたいなものを見出すときがある。
 
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(「旨いも不味いも関係ないよ/好きなんだ……寿司」施川ユウキ『鬱ごはん』秋田書店、2013、30頁)
 
それはおそらく『食べること考えること』や『亡命ロシア料理』の著者には、というか、ほとんどのおいしいものが好きな人間には認識できない光だ。でもそれって、どちらの目が、舌が悪いと一概に決めてしまえるようなものだろうか。食とはそんなに単純なものだろうか。
 
まずいものを食べていれば幸せという人はいないだろうが、しかし丁寧に調理された良き「食」にのみ美しさが宿るというのも、イマイチ冴えない主張である気がする。あえて意地悪な言い方をすれば、『食べること考えること』や『亡命ロシア料理』の著者の美的感覚って、かなり偏ってない?ということになるかもしれない。

 

もらった食べ物をトイレに捨てるとか、食べ物を気味の悪い動物の姿にたとえるとか、けっこう真剣に気持ち悪い、生理的に受けつけない描写がたびたび登場するし、漫画として出来がいいのかどうかすらもはやぼくには判断がつかないので、とりたてて人さまにオススメしようとは思わないのだが、しかしなかなかどうして、ぼくのような頭ホンワカパッパ野郎には、なにかしら突きつけてくる漫画であった。『バーナード嬢曰く。』は作者の上澄みに過ぎなかったのである。

 

唯一無二のアンチ飯イデオロギーをたずさえて驀進する『鬱ごはん』よ!!!!!!!

闘え!!!!!!!

「食」に不真面目さを持ち込め!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

そして復讐するのだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!

この飽食の世界に!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

ピィーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

『傷物語 鉄血篇』という映画を見ました。

さいきんはアニメばかり見ている、というか、アニメを見てばかりいる。やりたくもないことに時間を取られることが多くなると人はもう疲れちゃって、アニメか酒か、あるいはその両方に走る。そう決まっている。

 

今日は新宿で『傷物語 鉄血篇』を見る。

 

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〈物語〉シリーズは2009年の最初の放映から去年の『終物語』まで、なんだかんだと追いかけている。原作がどうなっているのか知らないけど、すくなくともアニメでは〈物語〉シリーズというわりに物語に重きが置かれてないような気はずっとしていて、続編が放送されるたびに、この人たちなにしてるんだっけと思い出しつつ見なくてはいけないのがアレだが、惰性でもなんでもいちおう見続けてはいるから、まあ物語以外になんかしら魅力を見出してるんだと思う、たぶん。映画もけっこう楽しみに待ってた。

 

本作は3部作の1作目ということで、ここで終わるのというくらいあっけなく終わってしまったが、シャフトがテレビシリーズの「紙芝居」ではなくてちゃんと時間かけてアニメーションを作るとこうなるんだなあと感動した。アバン(オープニングまでのプロローグ部分)の映像数分を見ただけでも1500円払ってもう一度見てもいいと思ったし、キスショットと阿良々木くんがはじめて出会うシーンなんかもう、エグいくらいに見ごたえがありました。実際エグいシーンなのではあるが。

 

にしても、羽川。羽川ですね。序盤ほんのちょっとしか出てこないけど。ガハラさんは主人公の彼女ではあってもシリーズのヒロインではない、あらためて気づかされました。羽川です、そう、これは羽川のアニメなんだよ。そこのところ、わかってるのか?

 

映画終わり、南口の「五ノ神製作所」で海老つけめん。4時台に行列ができてるなんてずいぶん人気だなと思ったが、個人で細々やっているラーメン屋ってランチタイムが終わると夕食時までいったん店を閉めることが多いので、その時間帯に開いている店がそもそも貴重ということもあるのかもしれない。それなりにおいしい。

 

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雪々て東京

雪だぃぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーーんんんーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 
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ん雪んぴぃーーーーーー!!!!!!!!!!!!!ぬ雪ろらーーーーーーー!!!!!!!-------------ーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 
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え、あなたはひょっとして……………!??まさか……………!!!

 
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雪だるま先輩!!!!!!雪だるま先輩じゃないですか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ほら、ぼくですよ、ぼく!!雪だるま後輩です!!!!おひさしぶりです!!!!!!!
 
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ささ、コーヒーでもどうぞ。え?溶けるからいらない?わがままな客だ。
 
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じゃあチョコレートをどうぞ。なに、セブンアンドアイの安物はいらない????
 
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賀正!
 
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『ピロスマニ』という映画を見ました。

最近は『CLANNAD』というアニメを見ている。「という」などと紹介をするまでもない有名作品だが、いわゆる「萌え絵」というやつなのか、キャラデザがまったく好みじゃないので見ていなかった。ぼくの好きなほかとなにが違うんだと説明を求められたら言葉に詰まるんだけど。

 

ぼくはアニオタと呼ばれることに特に抵抗はないしまあ実際それなりの数見ているのでアニオタなんだろうと思う、けどただこうやってオタクの教養的な位置づけの作品をあんま見ていない(エヴァとかガンダムにもそんなに興味ない)あたり、ぼくが勝手にイメージする「オタク」像から自分がずいぶんとかけ離れているような気がして、自信を持ってオタクを名乗りづらい。いやまあ、別にそんな自信いらないしそもそも自称する必要がないのだが、要はオタクにすらなりきれずに、『げんしけん』の世界にあこがれる気持ちは今後もずっと消えないだろうという、そういう話である。

 

なんの話だっけ。

 

そうそう、『CLANNAD』14話を見ていたら、エンドクレジットに大学の部活の先輩だった人の名前が出てきてめちゃめちゃ笑った。彼女はかつて声優をめざして専門学校に通い、結局は普通に就職したのだけど、そういえば昔、『CLANNAD』にエキストラ出演するんだよ!という話をしていたのをこれを見て思い出した。声優の学校に通っているという話を当時はみんな笑って聞いていたが、ちょい役とすら呼べない、名もないキャラの声一言とはいえ、こんな有名作品にいちおう名前が出てもいるわけだし、本気で頑張ってたんだな、といま懐かしく思い返す。

 

10月からのテレビアニメを結局『終物語』しか見ていないので、今月は未視聴アニメ消化月間と銘打ち、タイヤのゆがんだ自転車でぐらぐらとツタヤに通っている。上旬に今敏の『妄想代理人』を見終え、つづいて『CLANNAD』のほか、『電波女と青春男』と『ココロコネクト』。うしろ2つは出てくるヒロインたちがもう全員全員、全の員、かわいくてぼくは溺死しそうなので、今まで見ていなかったことを絶賛後悔中だ。

 

しかしひたすら家でアニメばかり見ているのもどうかと思って27日、神保町の岩波ホールに『放浪の画家 ピロスマニ』を見に行ってきた。

 


映画『放浪の画家 ピロスマニ』予告編 - YouTube

 

グルジアの画家ニコ・ピロスマニ(字幕では「ニカラ」だった)を主人公にした映画で、基本的な筋書きだけを言ってしまえば、絵ぐらいしか才能のない朴訥な田舎の青年が街に出て、酒場に飾る絵を売り歩いてなんとか生計を立て始め、ある日才能を認められて芸術界デビューを飾るものの、すぐに画壇はてのひらを返し、街の人にもそっぽを向かれ、画家は失意と酒にひたってという、ありがちっちゃありがちなものだ。加藤登紀子なんかが歌っている有名な歌謡曲「百万本のバラ」に登場する貧しい画家のモデルとなったということで、踊り子への報われない愛がどうこうと予告編でもチラシでも強調されているが、ラブストーリー的な要素は皆無で、それでいいと思う。

 

この映画に関してはそういうあらすじ自体はそれなりにどうでもよく、真横から撮られ遠近感のない、ぴしっと構図の決まった動きの少ない絵画的な映像の連続が、プリミティブなピロスマニの画風を思わせる現実離れした雰囲気で作品世界をつつんで、そこがぼくはたいへん気にいった。とても良いものを見られたと思った。前のほうに座ったおじさんはがっつり寝ていた。

 

映画館を出て寒い。古本屋を少々しばきあげたのち、神保町から地下鉄の小川町の駅のほうまで歩き、「五ノ神水産」の銀ダララーメン。初めて食べたが、最高。

 

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ペテルブルグは燃えているか

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数か月前、文庫のくせにやたら値が張ることでおなじみ、講談社文芸文庫のリクエスト復刊キャンペーンというのをやってるのに気づいて、ロシアの象徴主義の詩人アンドレイ・ベールイの長編小説『ペテルブルグ』に投票した。
 
票を投じるにあたってコメントを書けということだったので、前々から手元に欲しいと思いつつ高値の古本を前に尻込みしてきたこともあり、とにかく復刊してほしい一心で夜中のテンションを駆ってめちゃめちゃのめちゃに褒めちぎった。そしたらありがたいことに、当選というのかなんなのか、復刊したものをいただけることになった。
 
そのとき書いたコメントが「東京都・20代・男性」の意見として帯に載っている。広告なんかでよく目にするどこどこ在住の匿名の誰々なんてほんとに存在するのかよ、と思っていままで生きてきたが、この「東京都・20代・男性」に限っては存在します。それがぼくなのです。

『π』という映画を見ました。

ツタヤって、DVDとかCDめちゃめちゃ探しづらくないですか。あんなに整理整頓が苦手そうなのに、どうして図書館運営したいの。

 

9日、『π』という映画を見る。下のPVに使われている映画のひとつがこれだと知ったため。たまたま。

 


TABOO1 feat.志人 「禁断の惑星」 Produced by DJ KENSEI - YouTube

 

ちなみにアニメの部分は『ファンタスティック・プラネット』、高度な文明を持つ巨人に支配される人間が反乱をくわだてるという筋書きで、『進撃の巨人』の元ネタかと噂されている作品。どうなんでしょう。

 

『π』は、20歳で数学の博士号を取得し、世界の法則はすべて数学的に解き明かせると信じる天才青年が、コンピューターを駆使した株式市場の研究に没頭するなかで偶然、円周率に潜む世界の秘密、この世のすべてを解き明かす手がかりとなるかもしれない216桁の数字に出会い、主人公の才能を利用しようとする投資会社のエージェントやユダヤ教神秘主義集団に付け狙われる、というのがおおまかなストーリー。

 

狂人すれすれの姿勢で研究にのぞみ、大学の元指導教官に、お前がやっているのは数学ではない、数字占いだ!と諭されてしまう主人公は、行く先々で悪夢的な光景を目にするようになる(手が血まみれの男、放置されたむき出しの脳みそ)。彼はほんとうに世界の真実にたどり着いてしまったのか、それとも単に誇大妄想にとりつかれただけなのか。『競売ナンバー49の叫び』を読んだときの感覚を思い出しました。

 

11日の日曜日には、新宿で映画。『心が叫びたがってるんだ。』を4時から知人と見る約束をしたので、その前にひとりで『リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』。2013年のアニメミライに出品されて話題になった25分ほどの短編と、新作の続編50分くらいの2本立て。ぜんぜん泣きどころじゃないところで泣きました。先生がシャイニィシャリオなのかどうかとかも明かされてないし、さらなる続編が制作されると信じています。やっぱりいつだって、信じる心が魔法なんだよなあ。

 

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しあわせすぎてクリアファイルを買う。ぼくの遺骨はこれに入れて保管してもらおうと思っています。

 

『心が叫びたがってるんだ。』は日頃から、中高生の恋愛しか見たくない、中高生の恋愛以外のものを見るくらいなら太陽で目を灼いたらいいと感じているぼくにとっては、好物以外のなにものでもなかった。ただ終わり3分の1くらい尿意と闘いながら見ていたので、できれば折を見てもう一度見に行きたい。一緒に見た知人はクラシック音楽に歌詞をつけるなとかクラスがあんなにまとまってるのが不自然とか文句が多かったので、ぼくの全人生を賭して蛙にしておきました。ラブストーリーを減点方式で見るやつは、王子様のキスでまことの愛に見舞われるまで地べたを這っているのがお似合いだ。お似合いだよ。

 

帰宅して夜には『櫻子さんの足下には死体が埋まっている』。今期見るアニメはこれと『終物語』だけになりそう。いつだってぼくが欲しているより少し、ラブコメは不足している。